記憶は曖昧です
町の小さな不動産屋に十年ほど勤めていた。
私がもう辞める、という時に新たに人を雇わなければならないと募集をかけることになった。
募集内容を見てみると基本給やなんやかんやの後に『年に二回、社員旅行あり』と誇らしげに書き記されている。
確かに社員旅行には行った。
十年勤めて二回ほど。
単純に割ると五年に一度。
見栄を張っているのか、それとも今後はほんとうに年に二回の旅行をするつもりなのか。
どちらにしろ、募集要項みながら
「わー、社員旅行?!素敵!」
とはならんやろ。
−−−−−−−−−−−−−−−−
最初の社員旅行。
ある年の忘年会、社長(六十代)が
「来年は社員旅行、いこうか」
と酔いながら宣言したその旅はすぐの三月に
社長の奥さん(六十代)
社長のゴルフ仲間でもある家主(六十代)とその彼女(六十代)
と数名の社員とで実行された。
「どうせなら島へ行こう」
の社長の一言で行き先は石垣島に決定した。
どうせ、の使い方がそれで合っているかは分からない。
三月、不動産屋がめちゃくちゃに忙しい時期にギリギリまでキリキリ仕事をしながら
「あとはどうにでもなれ」
という気持ちで社員は沖縄行きの飛行機に乗り込んだ。
機内では早速パワフル六十代達が持ち込んだアルコールで酒盛りをしている。
私は酒にはあまり酔わないが、乗り物にはすぐに酔うので機内でアルコールを楽しむ騒がしい六十代を畏怖の念を抱きつつ眺めていた。
さぁ、上司と家主とそんなに親しくもない社員という気を遣う人たちに囲まれての二泊三日の旅の幕開けである。
もう帰りたい。
−−−−−−−−−−−−−−−−
そんな気疲れの旅の二日目。
我々は海へ向かっていた。
その日
「せっかくなら何か体験しよう」
という社長の提案で
『更にどっかの島に移動して水牛車に乗る』
『海に潜ったりとかする』
の二つから好きなコースを選ぶことになったのだが、六十代チームがみんな水牛に行ったので、もう気を遣い一緒にいることに疲れた平社員チームは自然と海を目指すことにしたのだ。
普段の私なら絶対に海は選択しない。
出来るだけアクティブなことは避け、旅も日常ものんびり過ごしたいと生きている。
なのにウェットスーツを着込んで、ボンベを背負うことになってしまった。
予約してあるダイビング会社へ行き、説明を受け、目的の海まで六分程バスに揺られる。
もう酔いそう。
潜ったのはそう深くもない海。
しがみつくよう指示され、海流を感じながら掴んだ海底の岩を
「この指を離したらもう帰ってこられない」
と宇宙にいるような恐怖を感じながら、力の限りに握った。
海でのすべてがやっと終わり、疲れ切ったこの体と心で帰りのバスに乗り込めば確実にリバースする!
と確信があったで他の社員に
「というわけなので、すみませんバスパスして歩いて帰ります」
と告げ、見送った。
旅に連れて行かれて初めての一人時間。
なんせ宿泊の部屋も社員同士、相部屋なもんで。
あまりのんびり歩いて遅くなるとその後予定されている
「団体で街散策」
に差し支えるけど、なんせ一人が嬉しい。
フンフン歩いていると
『具志堅用高 記念館』
が現れた。
見逃しただけかもしれないが、案内などもなく、突然に。
完全に町に溶け込んでいる。
少し涼もうか、とふらりと中に入り、ふらりと館内を回り、ふらりと外へ出てまた歩き始めた。
予定されている時間に間に合い、社員に
「迷わんかった?」
と聞かれたで
「大丈夫でした。途中で具志堅用高館ありましたよ」
と何気なく告げると、急な盛り上がりを見せたので写真の一枚でも見せてあげたかったのだが、なんせふらりふらりしていたのでなんの画像もない。
その夜、パワフル六十代と合流し食事をしながら水牛と海中の感想をそれぞれ披露する中
「そういえば、みついさんが具志堅用高記念館に行ったらしいんですよ」
と話題にされると、今度は六十代も巻き込んでの盛り上がりを見せ、羨ましがられた。
写真の一枚も残していないのがますます悔やまれる。
今まで社内で具志堅用高の話題はおろかボクシングの話題すら出たことなかったのに。
私の周りにはこんなに具志堅ファンがいたというのか。
ならば私はなんてふわふわと記念館を歩いてしまったのか。
もっと子細に見て回り皆に語るべきだったのではないか。
ばかばか!
−−−−−−−−−−−−−−−−
そういうわけで、全然乗り気でなかった社員旅行なので今では写真一枚も残っておらず、記憶もほぼない。
石垣島に行ったことなど幻、空想かと思うほどだ。
ただ一つ、具志堅用高記念館があったおかげで私の記憶は石垣と繋がれている。
あの時、水牛を選んでいたら石垣島の思い出が今より更に曖昧なものになっていたかもしれない。
私に記憶をありがとう
具志堅用高。
※略してますがその名を文字に打つとき、胸のうちではもちろん敬称をつけています。