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リセールバリュー

ものを綺麗に扱うのが苦手だからか、文庫本がカバンの中でよくくしゃくしゃになる。カバーには傷がつくしページが折れることだってしょっちゅうだ。そんなあられもない姿を見つけてしまうと、本に対する申し訳なさといたたまれなさに苛まれる。まあでも自分の本だし読めるからいいかと考えてなんとかその場を乗り切る。

それでも最近は、ものに傷がつくのを昔より気にすることが多くなった。ものを長く使いたいという気持ちももちろんあるが、そんなことよりも大事に使って次売るときに高く売りたいという気持ちから、見てくればかり無意識のうちに気にするようになってしまったように感じる。手軽に見知らぬ誰かに自分のものを売れる便利な時代の中で、余計な気持ちが一つ生まれてしまう。便利なものには弊害がつきものだ。

モノの持つ本来の目的とは全然違う土俵で気をもんでいる。なんというか”所有”という意識がすごく薄れている。身の回りのものに所有格がつかなくなる感覚。”私の”本、”私の”車、”私の”家。傷つかないように細心の注意を払って、目的が済んだら次の人へ。私の手元にあるのに、それは私のものではない。リセールバリューを日々の中心として暮らしを展開している。”所有”とは異なる”消費”の文脈で毎日が進んでいく。

たしかに便利だけどなにか物足りない。虚空にふわふわと浮かぶ的につぎつぎとパンチをしているようだ。的は倒れるけど、また次の番の人の為にすぐ立ち上がる。ディズニーランドのホーンテッドマンションのように、自分の為だけの演出だと思ったら、すぐにまた同じことを後ろのひとにも言っている。誰のためでもないアトラクション。誰のものでもないアトラクション

自分のものになるのが嬉しいという感覚を小さい頃から特に強く持っていたからだろう。気に入った道端の石を大事に大事にカンカンに入れて保管していた。伸びきったカセットテープも、何かの機械のネジも、父親からもらった火がつかなくなったビリヤードボール型のライターも、とにかく気に入ったものは自分の引き出しに入れていた。親にはいつまで持っているのと呆れられたが、ずっと大事に持っていた。誰のものでもない”私の”ものという感覚が、少年の心にはぐっときたのかもしれない。モノの目的とモノの所有はかならずしも同じ部屋にはいないのだろうか。

中学生や高校生のとき、かばんの中で水筒の麦茶が漏れて、文庫本がふやけてしまいそのまま当社比1.5倍ぐらいに膨らむこともよくあった。自分の本棚の中にはそんな本が捨てられずいくつもある。ふやけていても文字は読めるし、捨てる理由もない。こんなものをわざわざ買おうなんて物好きはいないだろうから、リセールバリューや消費の文脈からは未来永劫外れる。麦茶がかかってしまったばっかりに、こんな便利な世の中でもいつまでも”私の”本でありつづけるのだろう。それはそれでこの本に別の申し訳なさが込み上げてくるが、まあでも自分の本だし読めるからいいかとなる。

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