ロキの解放 《異聞エッダ・オマージュ》
本作品はnote神話部2周年記念企画・お題リレーの参加作品です。前の人から引き継いだお題に従って作品を書き、自作の中から新たに別のお題を抜き出して次の人に渡していきます。
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二番手の僕は吉田翠さんより
バトンを受け取りました。
引き継いだお題は「獣」
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【作品の前に】
ラグナロクとは北欧神話における神々同士の戦争です。オーディンの率いるアース神族/ヴァン神族と、魔狼フェンリルら巨人族が壮絶な戦闘を繰り広げます。表題の「ロキ」は巨人族の神で、フェンリルの親にあたります。元々オーディンらとは深い親交を結んでいましたが、ラグナロクの開始直前、光の神バルドル(オーディンの息子)を殺害した罪で、アース神族に捕らえられていました。
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ロキの解放
《異聞エッダ・オマージュ》
終わりの始まりの……すこし手前。
宮殿の地下道を渡りながらオーディンは未来に想いを馳せた。道には等間隔に灯りが並べられているが、暗闇を照らすにはひどく頼りない。松明に近づいて浮かび上がるオーディンの顔はニヒルな笑みを湛えていた。こんなにも薄汚い地下道だが、来る時代よりはだいぶ「まし」に思えた。まもなくこの世界は闇に覆われる。それはただ物質的に暗いだけでなく、希望がついえた荒地になるということだった。
グラズヘイム──またの名を「喜びの世界」──外壁も内装も金一色に輝くその宮殿には、オーディンの玉座の他に12神の座が据え置かれている。このとき、神々はみな出払っていた。迫り来る滅びのときを回避するため、画策、暗躍、せわしなく世界を駆け回っていた。いの一番に異変に気付き尽力したのは他の誰でもないオーディンだったが、世界が今まさに闇に覆われようとするこの日に、彼はみずからグラズヘイムに居残った。いちど、その面を拝んでおかねばならない者がいたからだ。
暗闇の先に鋼鉄の観音開きが浮かび上がり、その手前で最後の松明が揺らめいている。ふと、扉の軋む音がして、地響きとともに地下道が強く揺れ始めた。振動は途切れず伝播し、扉から宮殿内の入り口に至るまでの一本道が大蛇のようにうねる。天井からは石と砂とが降り注いだ。
オーディンは身じろぎひとつせず、目を閉じて扉の向こうにいる男のことを想った。
──さぞ苦しんでいることだろう──
やがて揺れは収まり、何事もなかったかのように扉の方へと足を進めた。
扉が開け放たれると、瞬時に世界の光と風が吹き込んできた。そこはグラズヘイム宮殿の座する丘の、断崖にある岩棚に繋がっていた。崖のへりまで歩み寄る。西向きの眺望の大部分を占めているのは赤銅色の空だった。時刻の割に仄暗く、見るからに不吉な様相をしている。中央に浮かぶ太陽は、その左半分が不整形にえぐり取られていた。日蝕の類でないことは明らかだった。
──急に暗くなった原因はあれか──
オーディンは天空で何が起きているか瞬時に悟った。いや予見していたことが現実に起こるのを確かめたと言うのが正しい。
「……うっ……うぅ……」呻き声がして大地がまた震えた。
オーディンはおもむろに振り返ると、扉に近い岩肌にもたれ掛かる傷だらけの男を見つけた。ロキ。男と女、善と悪、二つの顔を併せ持つ巨人族の神である。オーディンとは義兄弟の契りを交わした仲だったが、光の神バルドル──オーディンの息子である──を殺害したことで神々に背いたとして捕らえられ、岩壁に手足を括り付けられた。
彼の頭上には3匹の蛇が吊り下げられている。蛇はしきりに毒液を飛ばし、その度にロキは苦痛に顔を歪めた。呻き声がまた地響きを呼ぶ。ロキの捕縛。拷問による苦痛がアスガルズに地震を呼び起こしたのだと後に伝えられた。
「散れっ!」オーディンの一喝に飛び上がった蛇たちは秒で粉塵と化した。
毒液の雨から解放されたロキは虚ろな眼で義兄を見遣った。言葉を交わすことなく向き合う2人。静止した時間はとても長く……彼らが動くよりも先に、太陽がまたさらに欠けた。
オーディンは西の空へと右手を掲げ、侵食されつつある光源を指さした。
「あれはそなたの手の狼の仕業だな」
「ええ……太陽を捕らえたのはフェンリルの子・スコル。東の空では、もうひとりの子ハティが月を飲み込もうとしていることでしょう」
数年もの間、この世界は天変地異に見舞われていた。思うように昼が来ず、春も来ず……天体の軌道が変わったのだ。太陽と月を引く御者らが狼の追撃から逃げ回っていることが原因だった。
「つまり……そなたの孫ということか」オーディンが言うと、ロキは孫という単語に驚き反射的に空笑いをした。
「ははっ、家族らしいことなど何ひとつしておりませんよ。わたしも……我が子フェンリルも」虚ろな瞳がまた一段と翳る。
「覚えておいでか。あなたの神殿の中庭で、杯を交わした日のことを」ロキは力ない笑みを浮かべながら言った。オーディンの脳裏に、ある一幕が鮮明に浮かぶ。
「……無論」
オーディンの神殿の中央には、天まで吹き抜ける中庭があった。宇宙樹を模した樹木を中心に据え、緑豊かな草木と可憐な花々で囲んだ。雷神、戦いの神、豊穣の神……あらゆる神が訪ねてきて、あの庭で杯を交わしたものだ。一方、ロキは他の神々に遠慮してか、なかなか庭に来ようとしなかった。
しかしその日は違った。ばつの悪い顔を浮かべて神殿に現れたロキ。その足元で2匹の子狼がいがみ合っていた。フェンリルに子守りを押し付けられたロキは、あやし方が分からず途方に暮れていたのだ。オーディンは自身の従者である狼、ゲリとフレキを中庭に放った。するとロキの連れてきた狼は互いに威嚇するのを止め、中庭へと駆け出した。4匹になった狼。追い回し、じゃれ合い、甘噛みし……気づけばオーディンの子・バルドルもその輪に加わっていた。血の気が多い狼、よく躾けられた狼、輝かしい神の子息。異種混交、仲睦まじく戯れるさまを遠目に見つめるロキに、オーディンは黙って杯を手渡した。2人が神殿の中庭で酒を酌み交わしたのはこの一度きりであった。
「あの時の子狼たちが……」オーディンはため息をもらすように言った。
「ほどなくして、スコルは力を求めて太陽を追い回し、ハティは愛に飢えて月を追うようになりました」ロキは淡々と告げた。
「……あれはたわいもない1日だったが?」合点のいかなそうなオーディンに、ロキは泥と毒液に汚れた首を振ってみせた。頷いたのか否定したのか、よく分からない仕草だった。
「あの中庭は魔狼の眼には眩しすぎたのかもれません。少なくともわたしには……そうでした」
その言葉は、眩しいものを悉く失った世界への鎮魂歌のような響きを持っていた。
「……獣の子は獣、か」
間もなく太陽は完全に飲み込まれる。月も飲み込まれる。ロキの子の、フェンリルの子の、狼たちによって。そして世界は底知れぬ闇に飲み込まれる。オーディンには先々のことがすべて見えていた。万物の父の眼は未来を確実に捉える。神々の黄昏はどう足掻いても防げない運命にあった。
彼は背負っていたグングニルを手に持ち直し、槍先をロキの鎖にあてがう。念を込めると拘束は瞬時に弾け飛んだ。倒れ込み膝をついたロキを見下ろしながら、オーディンは言う。
「どうせ、ラグナロクが始まればあらゆる鎖や枷がちぎれ飛び散るのだ。そのうちにフェンリルも解放されるだろう」
ふたたび西の空を仰ぐ。それは同時に、ロキに背を向けたことを意味していた。
「もう行くが良い。世界を閉ざす者よ」
ロキにとってはこれから兵刃を交えることになる神々の長。しかし、かつてその背を敬愛の眼差しで見つめていた日々があった。悪戯を仕掛けたこと、窘められたこと、褒められたこと、思い出が次から次へと浮かんでは眼下の闇へと消えていく。本当は感傷に浸る時間などないはずなのに。
──ましてや今ここで裏切りの弁明などしたところで──
ロキは思惟を断ち切り、よろめきながら立ち上がった。最後に……と見遣った背中の向こう側で、太陽の最後の一片が恨めしそうに燃えていた。
立ち去ろうとするロキにオーディンが告げる。
「俺の神殿に葡萄酒を用意してある。皮肉にも狼たちに集めさせたものだ。また飲みに来い……すべてが終わったらな」
かつてと変わらぬ堂々とした物言いにロキはわずかに安堵した。もうこの方の顔を見ることはないかもしれない。しかしロキはその身が完全な獣と化したとしても、この背中と声色だけは忘れまいと誓った。
「あなたは……本当に勝手な方だ……」
そう言い残して、断崖の先へと足を踏み出す。真っ逆さまになる世界。刹那、狼が太陽を完全に飲み込んだ。底知れぬ闇が、堕ちゆくロキの体を抱き止めた。
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【補足】
北欧神話『エッダ』によれば、捕縛されたロキの傍には妻のシギュンがおり、ロキの顔にしたたる毒液を洗い桶で受けて守っていました。シギュンは桶がいっぱいになると捨てにいきます。本作はそのために彼女が席を外している、という裏設定のもとに話を進めました。
またロキはオーディンの手によって解放されたのではなく、ラグナロクの開始によって鎖が弾けた拍子に解放されたと伝えられています。
その他にも数多の妄想を盛り込んだ創作ですので、安易に信じたり他人に話したりしないでくださいm(_ _)m
また本作は悠凛さんによる〘異聞・エッダ1〙ラグナロク~神々の黄昏~ のオマージュ作品でもあります。ぜひとも併せてお楽しみ下さい!
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3番手は悠凛さん、渡すお題は「庭」です。
どうぞお楽しみに!
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