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司馬遼太郎「歴史を紀行する」を読んで、関ケ原が現代に繋がっているということ
司馬さんの「街道をゆく」を読んで興味をもち、図書館で司馬さんのコーナーを見ていると、目についたのが『歴史を紀行する』という本でした。
司馬遼太郎さんの視点で語られる歴史と旅の記録は、「目からウロコ」。
本書では、幕末の激動を象徴する長州藩や薩摩藩、会津藩など、歴史的に重要な各地を巡りながら、その土地と人々の特性を独自の「司馬史観」で掘り下げています。この本が「街道をゆく」シリーズの原型になったという点も、興味をそそられました。
あらすじ
幕末ー松陰を筆頭に過激につっ走った長州。西郷、大久保と大人の智恵を発揮した薩摩。容保を頂点とした会津の滅びの美学ーー危機の時ほど、その人間の特質が明瞭に現れる時はない。風土と人物との関わりあい、その秘密、ひいては日本人の原形質を探るため、日本史上に名を留める各地を歴訪し司馬史観を駆使して語る歴史紀行。
高知、会津若松、滋賀、佐賀、鹿児島、京都、萩、三河、盛岡、岡山、金沢、大阪の12ヶ所を訪ねて語る、司馬史観に魅了されます。
気になった地を少し残してみます。
竜馬と酒と黒潮と[高知]
土佐は国税庁の統計では酒の一人あたりの消費量が日本一で、酔っぱらっての刃傷沙汰の件数も日本一であるという。これは土佐人にとって恥ずべきことであるか。土佐にあっては、ある者が泥酔のあまり自動車にひかれて死んだとしたら、他の土地ならば、だから言わぬことじゃない、とうとうざまを見たかという反応になる。しかし、土佐では、よくやった、とまでは思わぬにしても、その非業の者に対して好感を持ち、そこまで飲んだか、痛烈なことよ、というような、リングの上で死んだ拳闘選手をたたえるような感動を持つ。土佐人が他の日本人ときわだってちがうところは、かれらの意識をどういう暗い課題が通過しても、出てくる瞬間には化学反応をおこしたようにあかるくなっていることである。
司馬さんは、土佐的性格と思考法と行動が、幕末以降の日本人の歴史に大きく投影し、影響した、土佐人という、日本人の中ではきわだった一代表を不足なく書きつくすには数冊分の本が必要であると言っている。
会津人の維新の傷あと[会津若松]
会津藩というのは、封建時代の日本人がつくりあげた藩というもののなかでの最高の傑作のように思える。三百近い藩のなかで肥前佐賀藩とともに藩士の教育水準がもっとも高く、さらに武勇の点では佐賀をはるかに抜き、薩摩藩とならんで江戸期を通じての二大強藩とされ、さらに藩士の制度という人間秩序をみがきあげたその光沢の美しさにいたってはどの藩も会津におよばず、この藩の藩士秩序そのものが芸術品とすらおもえるほどなのである。
司馬さんは、なぜ、こういう藩ができたのか。と、ひも解いてゆく。
私は一時、会津藩に興味を持つようになり幕末に関する本を読むようになったことがあった。
司馬さんが本書で「純粋な、あまりに純粋な」と書いているように、会津藩への想いが強くなり読まずにいられなくなったのである。そして、会津藩主の松平容保よ、京都守護職をどうして断らなかったのだ、藩士たち、藩士の家族たちを守ることは藩主として立派なことじゃないのか、という思いでいた。
それについて司馬さんは、「幕末ぎりぎりの段階において革命勢力の標的にされたこの藩は、みずからこの死地にとびこんだのではなかったのである。」と。「われわれ史書を読む者はこの事を濃厚に記憶してやるやさしさをもたねばならない。」と教えてくれている。
そして、何冊も読んで、松平容保という藩主について、あまりにも若かったからか、優柔不断だったからなのか、自分なりに想像して謎だったことが、衝撃的な史実を司馬さんが書いていた。
時は遡って幕末から200年以上前、徳川二代将軍秀忠の時代。秀忠は側室をもたなかった唯一の将軍だと言われている。それが、たった1度だけ、乳母の侍女と例外があったのだ。そして、そのたった1回が男児を設けてしまった。正室を恐れていた秀忠は、すぐに江戸から母子を離し、遠方へやり生涯会わなかったという。
その公認されなかった公子の子孫は、松平姓を名乗ることになる・・
そうか、そうだったのか!歴史のなんということよ。
司馬さんは、もし秀忠が生涯に1度の浮気をしなかったならば、会津松平家は日本史に存在しなかっただろうと言っている。
体制の中の反骨精神[佐賀]
佐賀藩は、「葉隠れ」で有名であるが、勉学好きといわれていた。ペリーが来た頃、三百諸侯が大名行列を組んで東海道を上下しているころ、精錬方が反射炉を作って自力で製鉄し、洋式鉄砲を製造し、化学工場では火薬を製造し、造船所までつくり国産の蒸気船をつくったという。
当時、日本のいわゆる三百諸藩というのはねむっているのも同然であった。薩長土の志士は京で政論をたたかわせ、その他の諸藩の藩主も藩士も江戸泰平のころの延長で茶のみばなしにあけくれし、大阪の町人は商利の追及のみに日夜を過ごし、諸国の百姓は上古以来のすがたで土を掘りかえしていたときに、ひとり佐賀藩のみが覚醒し藩士の子弟たちは発狂者が出るほどに勉強させられ、領内の百姓は艦隊や千門以上の火砲をつくるための重税にあえぎつつ草もはえぬといわれるほどの苛烈な労働生活を強いられていた。明治の日本は、こういう佐賀人の血汗の上に多くの基礎を置いていることを想うべきであろう。
隆慶一郎の「死ぬことと見つけたり」を読んでから佐賀藩の”葉隠れ”を知り、現代ではあまり目立たない佐賀県に興味を持つようになった。
はなわさんが佐賀県アピールの自虐的歌を作っているので、佐賀県の知名度はアップしているかもしれない。けれど、こうして歴史的にみると風土的気質というものがとても面白い。
維新の起爆力・長州の遺恨[萩」
「長州藩の藩士は、代々足を江戸にむけて寝る」という話が、真偽はべつとして幕末から維新にかけて流布されたが、封建時代というものはそういうものであった。怨みもまた食録ととともに世襲するものなのである。家康はあきらかに毛利氏処分において失敗した。潰しておくべきであった。
当初はつぶす決定であったという。しかし、毛利家の分家である吉川氏(のちの岩国藩主)の当主広家が、関ケ原で徳川に内通し、毛利の軍勢をうごけないようにしたという、家康に対し功績があるため自己を犠牲にして弁護し、家康は温情をかけたという。そして、広家がもらうはずだった、防長二州が与えられ長州藩が誕生した。
長州藩は下関海峡で外国船を無差別砲撃する。しかし、逆襲されこてんぱんにされたことで、西洋文明の威力を身をもって知ることになる。そして高杉晋作は、親代々の高禄である正規武士は戦場の役に立たないとし、有志者を募り騎兵隊を組織したという。
司馬さんは「このときこそ明治維新というものの内臓が天日にさらけだされたときであろう」と言っている。また、「ひとつは関ケ原の戦後処分の怨恨が温存されつづけていたため、幕府に対し復讐感情、とまでいかなくても、武士らしい感傷をもつ必要がなかったということが大きいであろう」と。
「歴史を紀行する」を読んでいくと、関ケ原の戦いがどこまでも繋がっていることがわかる。紹介しきれなかった、”郷土閥を作らぬ南部気質[盛岡」”では、大正十二年の原敬の暗殺事件にまで繋がっていて空恐ろしくなる。
そしてまた妄想が膨らむ。
関ケ原で西軍が勝ち、秀頼が秀吉のあとを継いでいたら・・
世の中はどうなっていただろう・・
人として立派な、大谷吉継、加藤清正、真田親子らが周りを固めて・・なんてことを空想してしまう。
西洋に支配されることなく、独立した日本でいられたのではないか・・
他、残り8つの項目は以下です。
近江商人を創った血の秘密[滋賀]
加賀百万石の長いねむり[金沢]
”好いても惚れぬ”権力の貸座敷[京都]
独立王国薩摩の外交感覚[鹿児島]
桃太郎の末裔たちの国[岡山]
郷土閥を作らぬ南部気質[盛岡]
忘れられた徳川家のふるさと[三河]
政権を亡ぼす宿命の都[大阪]
どの地も非常に興味深く、おすすめです。
ぜひぜひ読んでみてください。
あとがき
今日本は、中国、朝鮮、ベトナム、クルドなどの移民を大量に受け入れている。
北海道はすでに1/4が中国人に買われてしまっている。
東京の火葬場の7割は中国に買われ、東京メトロも今年は売られるという。
もう数ではかなわなくなり、真の日本人の居場所がなくなるのはもう目の前に迫っている。
日本の風土が亡くなるのも時間の問題である。
一人でも多く、この現実に目を覚ましてほしい。