理想を追い求めない生き方
わたしたちを洗脳する”理想”
テレビを見ても、会社に行っても、インターネットを見ても、至る所でこうあるべき、ああするべきという”理想”が語られている。
もはや、それは日常の景色になっていて、当たり前すぎて意識することもない。
理想を語っているなどとは、本人たちも思っていないだろう。
ある意味現代人は、多くのこうあるべき、という価値観に洗脳されていると言ってもいいだろう。
美しいことは素晴らしい
痩せていることは素晴らしい
学歴が高いことは素晴らしい
売上を上げられる人は素晴らしい
起業して成功することは素晴らしい
挑戦することは素晴らしい
結婚していることは素晴らしい
子供がいる人は素晴らしい
足が速い人は素晴らしい
休まない人は素晴らしい
いくらでも書けそうだ。
◯◯であれば、〜〜に違いない。
どんなコミュニティに所属していても、そのコミュニティなりの価値観があり、それによって拘束される。
だから、あるコミュニティでそこの価値観に窮屈さを感じて別のコミュニティに入っても、同じようなことで苦しむことになる。
自由を求めて、不良グループに入ったけど、そこはより一層拘束の激しい組織であったと言う話を聞いたことがある。
笑えない話だ。
過度な”理想”が生み出す自己否定による一体感
ではどうしたらよいのだろうか?
かつて心理学を学んでいた頃、何より大事なのは自分が持っている価値観に意識的になることだ、という話を聞いた。
多少抵抗があっても、紙に書き出すなどするのも良いかもしれない。
そうすると、少し客観的に慣れて、自分とその価値観を分離することができる。
つまり、強すぎる価値観を緩和することができる。
また、先ほど書き出した価値観を見て思うのは、どれもすごく抽象的であるということだ。
美しいとか、学歴があるとか、挑戦とか、すごく定義が曖昧だ。
厳密にどうなったらこれらが達成されるのかよくわからないし、ツッコミどころも満載だ。
だから、ある意味自分を苦しめるためだけにこの価値観は存在しているのかもしれないとすら思えてくる。
いや、実のところそうなのかもしれない。
どういうことか?
負け組という表現がいいのかわからないが、自尊心が低い人たちが集まると、苦しむことや自己否定の感情が共有され、コミュニティの隠れた共有価値になることがある。
私の家族がまさにそうだったからよくわかるのだが、自尊感情が低い人ほど、理想が高く、自己処罰の感情が強い。
このようなグループでは、”理想”を達成する人は全力で足を引っ張られたり、妬まれたりする。
だから、過度な思い入れのある”理想”を掲げる裏目的は、それを達成できない(しない)ことによる自己嫌悪、自己否定、及びそれによる一体感、安心感なのかもしれない。
そう考えると、私の家族だけでなく、多くの現代人は空虚で、自己否定の感情や不安感が強いから、過度に”理想”を追い求めるのかもしれない。
小さいことに感謝して少しずつ進む
理想を達成できないことが、実は重要ということになると、問題は厄介だ。
意識の上では理想を追い求めながら、深い部分ではそれが達成されることを恐れ、拒絶しているのだから。
どうすればいいだろうか?
まずは、先ほど書いた通り、自分がどんな価値観を持っているのかについて、敏感になることが最重要だとは思う。
ちなみに私の場合、仕事での成果や男親として子供とうまく接することができているかというのが、かなりクリティカルなテーマになっているのだなと思う。
多分これは、親との関係が影響しているのだと思う。
あとは、よく言われることかもしれないが、小さいことに感謝するというのはすごく大事なのではないだろうかと思う。
少し考えてみるとわかるが、小さな成長を喜んだり、小さな幸せに感謝することは、”理想”を強く持ち、それを達成できないことで自己否定することとは対極にある。
本当に理想を成したいのなら、少しずつの成長に喜びを感じることは必要不可欠とも言える。
だから、日々メモ帳などに自分ができたことや、受けた恩を書いていくことはとても大事なことだと思う。
これを日々続けていくことで、高すぎる”理想”を掲げることで、それとのギャップに苦しむ考え方から徐々に解放されていけたらと思う。