国語の教科書が好きでした1

中学生や高校生のころ、授業中に集中力が切れてしまったり、先生が授業に遅れてすることがない時など、よく暇つぶしに国語の教科書を開いて読んでいました。

暇つぶしなのでもちろん好きなもの、読みやすいものばかりを読んでいたので、評論や論説文などは飛ばし小説部分ばかりを繰り返し読んでいました。(初めて村上春樹が気になり始めたのも、教科書に入っていた「バースデイ・ガール」という短編からでした。)

国語の教科書を最後に読んでからだいぶ経ちますが、今でもふと思い出すものはいくつかあります。その中の一つが、宮沢賢治の書く世界についてのエッセイのようなものです。先ほど書いた通り自分は基本的に小説部分ばかり読んでいたのでこちらはあまり熱心に読まなかったのか大部分は忘れてしまったのですが、一部分だけ今でも記憶に残っているものがあります。

「少し見方を変えれば、見慣れた地元の電車だってキラキラ光る不思議な世界になる」というような部分です。これを読んで、自分も駅に滑り込んでくる地下鉄を眺めながら、「これは不思議な乗り物、知らない凄い仕組みで今から自分を目的地に連れて行ってくれるのだ」と、思い込んでみようとしました。普段は注目しない地下鉄のフォルムの線を注意深く見てみて、滑らかな車両に反射する照明をじっと見つめたりしました。「確かに、いつもと違って見えるような気もするような...しないような...しないなぁ。」と、少々残念に思ったのを覚えています。あの文章から感じた作者のドキドキとした感情を、自分は感じることが出来なかったことへの残念さです。

しかし、現在ふとあの話を思い出して再度その実験をしてみると、現在はそのドキドキやワクワクをありありと感じることが出来るのです。地下鉄だけではなく、身近にあるいろんなものを見て考えているうちに、未知の素敵な世界にいる感覚がするのです。

「年を取ると頭が固くなる」と言われているのを信じて残念に思いながら、そして少し怯えながら日々を過ごしていましたが、少なくともまだ大丈夫なんだな、と少し安心します。自分の頭の中の世界をもっと自由に歩けるようになったような気がして、少し誇らしくもあります。もちろん年を重ねると柔軟な発想が困難になる、というのが完全な間違いだとは思いません。しかし、時間が経つとその分いろいろなものを見て、感じる機会だって増えました。「本当に怯えなくてはならないもの」が以前よりもはっきりした分、自由に考えたり他人と話したりする機会も増やすことができました。多分、そのような「感じる」体験が自分の中で混ざり合って消化され、あのころよりも自分の頭の中の世界を発展させることが出来ている気がします。

長々と書いてしまいましたが、もしここまで読んでくれた方のなかで、あの教科書に載っていたエッセイの作者や題名がもしわかる方がいらっしゃいましたら是非教えてください。検索エンジンで少し探検してみましたが見つからず...。

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