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先輩の婚活 | 創作
「実をいうと、そんなに焦ってはいないんだ」
先輩はそう言って笑った。
就業時刻をとうに過ぎているオフィスで、このフロアには私と先輩以外に人気はない。
「え、でも、結婚相談所に入会したんですよね。結婚したいってことじゃないんですか?」
私の質問に、先輩は頭をかく。
少し目が泳いだように見えたのは、気のせいだろうか。
「身元がきちんとしている人の方が安心できるから。でも、どうしてもいますぐに結婚したいというわけじゃなくて、婚活をしてみたかったんだよ」
「婚活をしてみたかった?」
「結婚願望は、正直あまりないんだ。趣味がたくさんあって毎日充実しているし、ひとりでいることも好きだから。兄はもう結婚して子どもがいて、親もうるさくないしね。でもこのまま結婚せず年老いていくとして、なぜ若いときに真剣に結婚を考えなかったのだろうって後悔しそうな気がしたんだ」
私は、なるほど、とあいづちをうった。行動的な先輩が考えそうなことだ。視線を先輩の顔から逸らすと、窓越しに真っ暗になった空が見えた。
ため息を殺す。私の胸の内みたいな色だ。
「やらずに後悔するより、とりあえずやってみるということですか」
「そうそう。俺ももう30だからね、やってみて向いてなかったらやめればいいし」
それは、つまり焦っているということではないだろうか。
いつもより格段に口数の多い先輩をぼんやり見ながらそう思った。声が震えないよう言葉をつなぐ。
「どんな人が好みなんですか?」
「年上で、リードしてくれる人。俺はあまり話すのが上手くないから、たくさん話してくれる人がいいな。頭が良くて、収入がちゃんとあって、仕事が好きで頑張っている人がタイプかな」
年下で口下手で頭が悪く、収入が少なく今すぐにでもやめたいくらい仕事が嫌いな私は、少しうつむいてしまった。胸の部分の暗いもやのようなものが、ずん、と重くなる。
今すぐにでもやめたいくらい嫌いな仕事を、なんとかここまで頑張ってこれたのは先輩のおかげなのですがね、という言葉を飲み込んだ。
「先輩は優しいし誠実だし高収入だし、きっとすぐいいお相手に恵まれますよ」
「そんなことないよ、でもありがとう。ゆっくりいろんな人と出会いたいな」
こちらの意図などなにも通じることはなく、先輩は嬉々として話を続けた。
「今いちばん会っている人は、年下だけど趣味も話もとても合う人でね。週に一度のペースで食事をしていて、結構いい感じなんだ」
「とてもいいじゃないですか。その人とお付き合いしないんですか?」
先輩は、いやあ、と言って笑った。
まわりに誰もいないのに、少し声が潜められる。
「それがね、最近になって別の人から申請が来て。とても美人で年上なんだ。話はあまり弾まないけれど、こんな機会そうそうないからなあ」
笑みがこぼれてどうしようもない、といったふうに先輩は口元を手で覆った。
ああ、なるほど。
胸のもやがぱん、と音を立てて消え去った。
先輩は、私に悩み相談をしたいわけではなく、複数人の女性から並行で好意を持たれていることを自慢したかったのだ。きっと。
「先輩、とっても人気者ですね」
私の言葉に、先輩は大きく手を横に振って否定しながらもまんざらでもない顔をした。
ああ、私はこんな人を好きだったのか。
すうっと熱が冷めていくのを感じた。目の前の男の人が、急に知らない人のように思える。
私は先輩の顔を覗き込んだ。
「先輩、デートにとっておきのお店知ってます?私、外食が好きなので詳しいんです、よかったらデートの予行練習しません?」
「え、いいの?すごく助かるよ」
今度ははっきりと、先輩の目が泳いだのが分かった。スマートフォンを取り出し、食事の予定をたてる。
「やってみて向いてなかったら、やめればいいですもんね」
口の中でそっと呟く。
え?と聞き返す先輩に、私はただ笑ってみせた。