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北枕と葉桜② | 創作
畳に目を落とす。
しばらくして納棺師が訪れたが、私はずっとそのままやり過ごした。
若草色だったそれはところどころ茶色に色あせており、シミが顔のようなかたちになっている。納棺が終わり、視線を上げると棺の白が視界に飛び込んできた。棺の窓が閉まっていることにほっとする。そんな自分にため息が出た。
少しして、ちらほらと弔問客が来た。叔母の顔もろくに覚えていなかった私には、客の名前を聞こうが顔を見ようが誰だかまったく分からない。それが幸いしたのか、好奇の目で見られてもプライベートを詮索されても、思いのほか気にならなかった。
皆が雑談をしているなか、窓から夕暮れに差し掛かった中庭を眺める。そうか、たしかこの部屋から中庭に出られたなと、ぼろぼろに朽ちた縁側が目に入って思い出した。
父と母と、もう随分前に亡くなった祖母がその縁側に座って笑っていたこと。ときどき猫が迷い込んできて、近づくと威嚇されたこと。驚く程に大きな蛙が現れ、泣いてしまったこと。落ちた椿の花でおままごとをしたこと。
忘れていた幼いころの光景がよみがえって、懐かしくなると同時に胸が少し重くなった。昔は頻繁に庭師が来ていたその場所は、草が生え放題で池も黒く淀んでいる。
ふと、一本の酷く不格好な木が目に留まった。
絡まった枝にぼそぼそと咲く薄桃色に、桜なんて生えていただろうかと首を傾げる。もう半分ほど新芽が混ざっていた。
葉桜は昔から苦手だ。
薄桃色と緑色の組み合わせなんて、アンバランスではないか。儚げな花びらを押し分けて主張する鮮烈な緑に、心がざわざわとする。せっかくの美しい花が台無しだ、こうなるともう写真を撮るにも躊躇ってしまう。すべての花が散ってから芽が伸びれば見栄えもよいのに、どうして混ざってしまうのだろう。
満開の桜が大好きなだけに、口惜しい気持ち気持ちになってしまう。
低い声が響き、慌てて前に向き直るととうに僧侶が入場していた。
木魚の調子の良い音が響き、読経に手を合わせる。やはり棺を直視できなくて、ぼんやりと叔母の顔を斜め後ろから眺めることにした。彼女はきゅっと唇を結び、微かに眉をひそめて姿勢よく座っている。若く見えるが、目元や首元の皺で、彼女がもう還暦間近であることに気づく。
叔母はきつめの美人で、父とは顔も性格も似ていなかった。はきはきとしていて、凛とした厳しさがある。
私は幼い頃、従兄弟である彼女の息子とこの家を走り回っては大層叱られていたらしいが、あまり覚えていない。怖い人だとずっと思っていたし、今だって目の前にすると怖気付いてしまう。
隣の人が席に戻り、焼香の順番が来たことを知る。前に進み、否応なしに直面した棺に頭を下げて香をつまむ。苦手な匂いに、呼吸が浅くなった。
お経と木魚の音の間に、誰かが鼻をすする音が聞こえる。生き別れの娘が焼香をする姿は、そんなにも他人の胸を打つのだろうか。
白い煙がうっすらと立ち上っていく。
父が、死んでしまった。
急にそんなことを思った。そんな当たり前の事実だけが今さら、すとんと胸に落ちた。
そうか、死んでしまったのか。この棺の中にいるのは、父なのか。明日には骨となってしまうのか。本当に、死んでしまったのか。
席に戻る。
目を閉じて、父との最後のやりとりを反芻する。
(続く)
北枕と葉桜③