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ちゃんと感動しています

わたしはあまり涙を流しません。

何かにつけ涙を流すタイプに憧れたこともありますが、そうなれないのですから、諦めるしかありませんでした。でも、そういう分かりやすく感動を表現できるタイプに、未だ憧れはあります。

でも、感動していないわけではないのです。感動しない、感情が動かないタイプだったら、写真なんて撮っていないでしょう(笑)

写真はわたしにとって、心象風景の表現手段ですから。

ではなぜ、感動する出来事に出会っても、『わー』とか『きゃー』となって滂沱の涙を流さないのかを考えてみました。

それは、たぶん受け取る器が大きいからなのです。人としての器が大きいということではなく、出来事を受け取る器です。

受け取って、それを自分なりに解釈して人に伝えたい。そのためには冷静であることの必要性が、自然と分かっていたのでしょう。

自分なりの解釈を加えて、それを人に渡していく。それがしたいのです。そのためには、入口のところでいっぱいいっぱいにならないくらい大きな器が必要だということが、幼いころから分かっていたようです。

歌で表現したいときはゴスペルクワイアに在籍し、踊りではフラを選び、そして写真もそのひとつとなりました。絵を描いていたときもありますし、文章のこともあります。常にアウトプットする手段を選び、無意識に器を拡げてきたようです。

涙を流さないこと=無感動ではない。わたしは語り部として、何かを伝えていきたいのです。

小さい秋を見つけて、それも伝えたいと思っています。

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