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子供の質問

「遊びをやめて帰らなければならない夕方になると、胸がしめつけられるような、つらい気持になります。いっぱい遊んだし、帰らなくちゃいけないこと、わかっているのに、この悲しい気持は何なのですか?」

答え

「それは切なさというものです」

今日、こんな書き出しの本を立ち読みしたような気がしました。

 

 ドラマチックな人生は周辺にまかせ、常に目立たず、騒がずが身の上でしたが、この度身体上の都合で3ヶ月の休職を取らざるをえなくなりました。お騒がせ・ご迷惑に身が縮む出来事、又学年途中の授業の交代が無念でした。一年間の収穫を目前に、一番私の手が必要なはずのこの時期に「あってはならないことが起きた」という許せない感覚。自分のクラス、自分の生徒などという自分という思いがエゴのなせる技だとわかっていても悔し涙。

 カラダやその関わり方に関してはしばし選択を迫られる晩秋でしたが、いったん決めてしまえば肚がすわり、年が明けてからは不思議なくらい落ち着いた日々でした。

 すべてが「うつろひ」の中にあることをこの身が感じ、日本人の「もののあはれ」が実際に自分のカラダの中にはらり〜はらりと入って来たという気がしました。はらり〜はらりとこの身が散るのはちょと素敵な感覚です。しかし「この命、あわれなること美しき哉」と開き直れる程の、持続可能なナルシズムは持ちあわせず、五十代に突入してかいま見たオンナの絶望を垣間見た後の、六十代を目の前に、しばしヒトの絶望を再び感じる冬でもありました。

 それでも、いいことはあります。若い時、頭では望んでいても、なかなかカラダが出来なかったこと、感じられなかったことが、いつの間にか自然に出来たり、感じられるようになり、理想・夢というのはこのように慎み深く気づかれぬように叶うものなのだと思いました。それがこれからの希望とまではいわないまでも、「生きていればこそ」の発見は、生きている限りあるものですね。

 

 たとえば、樹木であれば、花ではなく、やたらとその枝ぶりに、書であれば、渇筆に同調する自分。甘いものが活動源という盲信から解放され、野菜のファイトケミカルで改善された爽快なカラダ。

 欲張らないこと。心配しないこと。エトセトラ 々・・・

 決して取り返しのきかない不可逆性の時間に対し「慌てず、焦らず、迷わず」を言い聞かせて過ごし、間もなく回復すれば、「生きていくことは、つくづくオロオロ、慌て、焦り、迷うこと」とその散らかり様が嬉しいのです。オロオロもさせてもらえない、慌て焦り迷うことが叶わない世界があることを知り、そこからまた我がままや愚痴の言える日々に帰って来て、本当に懐かしさと有り難さを感じます。

 

 さて桜が咲いて春が来ました。淡く、明るい色の服を求めずにはいられません。幾度もいくたびも、この季節、心、花になり迎えました。過ぎた日を思い、来る時に思いを馳せる、この痛切も日本人のカラダです。

 

 さて縮こまっていたココロやカラダが春にほころび、春と共にやわら外に出たがるようになりました。それでこの文です。仕事復帰が目前になり「何か記録しておこう!ことばにしておこう!」という気持になり、記録といえばかつてはスナップ写真、近年では一人よがりの短歌でしたが、よがる趣味の拡張で、このように不特定多数の方に読んで頂いております。

 職場に戻れば、時間に区切られた、あの容赦ない、クールな日常に追われます。しっかり「慌て、焦って、迷いたい」まだまだ取り散らかしてみようと思います。

 

 事故や病いを非日常と考えれば、日常は身体の危機的時間の持つ『時の逆流感』からの解放です。規則的ではなくても、日々はとりあえず、後ろから前に流れてくれる。しかし、不安や心配や痛みでココロやカラダが危機的な状況になるとそうはいかなくなるのがわかります。

 

『死』から『生』を眺めること、未来から今を想定するその逆流の中に『切なさ』や『もののあわれ』があるのでしょう。遊びに夢中だった子どもも、やがて遊びをやめて帰らなければいけないことを知っています。その痛切を思い出すかのように生きています。


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