見出し画像

弁当とおせち|『神と黒蟹県』に寄せて-3

神が好んで食するカレーやラーメン、雑炊、揚げ出し豆腐、天ぷらそば、刺身、もつ鍋などは応募作品のなかには見受けられなかった。人々は天ぷらをつゆに漬けたりとんかつを出汁で煮ることは厭わないのに、雑炊が冷えたり麺が伸びることは許さないのだった。考えれば考えるほど弁当というものがわからない。

『神と黒蟹県』

弁当とはなにか?

初老の男の姿で人間界に馴染んで暮らしている“半知半能”の「神」は、ひょんなことから「黒蟹のお弁当コンテスト」の審査員になってしまった。飲食店でしょっちゅう食事しているものの、実は食べ物の味がよくわかっていないというのに。

神には弁当箱の中身が、箱庭やアクアリウムのような一つの完成された世界に見えた。弁当を作る人は朝起きて、身支度をして出かける前に朝食と昼食の準備を並行して行うというのである。しかも毎日、少しずつ変化をつけながら、こんな手の込んだことを続けるのである。なんという情熱であろうか。

『神と黒蟹県』

自分で自分に持たせるお守り

料理もしたことがない神は困り果てて、ひとびとの弁当箱を透視したり「弁当とはいったい何か」とさまざまな年代に直接問うた。弁当の数だけ答えがあり、家族に作る・作ってもらう弁当の愛情が多く語られるなか、個人的に、自分のために弁当を作るこの二人の言葉が胸の深い部分に染みた。愛情は他人のためだけに費やすものじゃない。まず第一にケアすべき相手は、最もよく知る自分自身なのだから。

古書店を経営する近藤羽仁夫は、そぼろ弁当こそが最高の弁当であると思っていた。材料が安いし調理時間も短い。栄養価も高くて味もいい。そして誰が作っても出来栄えに大きな差が出ない。俺が俺のために作るそぼろ弁当こそが世界の頂点、王者の弁当である。

『神と黒蟹県』

介護職の樋口夏実は、お弁当って二度寝の布団みたいだ、と思う。自分で自分に言う「おかえり」みたいな。職場で食べるお弁当は、自分も私的な生活を持つ人間でありますという表明でもある。つまり弁当とは公私の狭間にある。

『神と黒蟹県』

会社員時代、まさにこんな気持ちでお弁当を食べていたことを思い出す。デスクでは息苦しいから、近くの公園まで歩いていって。どんなに暑くて汗が流れても、寒くて箸を持つ手が凍えても、オフィス内から抜け出して外の空気と一緒に口に入れたかった。勤務時間中の公的自分から解放されて、しばし私に戻って補給する昼休み。心身を公に染め切らないために逃げ込む心の安全地帯を、自分で作って持たせるお弁当が守ってくれていた。

権威はこちら側にある

一般に人は断絶を恐れる。人の死や事故、突然襲いかかる天災によってそれまでの生活が続かなくなることを恐れる。変化は物資やスキルの蓄えを奪う。知恵が通用しなくなる。権威や正義はこちら側にあると確認するための行事、すなわち弔いや式典、祭事などによって区切りをつけなければ気が済まない。

『神と黒蟹県』

一方で、その日常はある日突然断ち切られる可能性をつねに孕む。だからこそ人は、年の暮れや新年、盆にお彼岸、節分に地域の祭りと、なにかに付けて節目で区切り、次に進もうとする。変化のない日々を黙って繰り返していけるほど強くないから、次の自分に自動的に生まれ変われるリセットボタンを用意する。その究極形であり大トリが、365日を締めくくる大晦日と来たる新年だ。

おせちは神のお弁当

畳の上に正座した神は、重箱に手を合わせ、果たして今の自分はどんな顔をしているのだろうと思いながら蓋を開いた。重箱は九つに仕切られていて、伊達巻、なます、栗きんとん、紅白蒲鉾、海老の塩焼き、かずのこ、黒豆、昆布巻き、田作りが入っていた。

『神と黒蟹県』

食べ物に魔法をかけて愛情を表現するものが家庭の弁当だとしたら、おせち料理には新年を祝う気持ちと無病息災への祈りがあるのだった。味や彩りではない、オリジナリティでも地域性でもない。人々の祈りこそが神にとって真の食物であった。

『神と黒蟹県』

家庭の弁当にかかっているのは愛情の魔法であり、駅弁にかかっているのは掛け紙の魔法であり、おせちのお重を満たすのは無病息災への祈り。そう考えると、自分がおせちをあまり好まない理由もなんとなく分かった。誰かに決められたフォーマットで祈りたくないからだ。そもそも見えない何かに祈りたくない質だが、一年に一度の新年くらい、日常と一線引いてリスタートを祝うならば、自分なりの小さな祈りを、好きな形でこしらえればいい。

そんな気持ちでここ数年、元旦の朝にちらし寿司を作って食べることにしている。私も夫もお客さんも楽しめて、正月らしい華やかさとめでたさもある。これが自分で作った新しいコミュニティの、ささやかな新年の祈り。また弁当を作ったり食べたり暮らしていくためのおまじないを掛けるように、また今年もほかほかの酢飯を煽ぐのだ。

いいなと思ったら応援しよう!