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世代を隔てるもの |『神と黒蟹県』に寄せて-1

わたくしの泣き笑い謝罪を「すごい武器、伝家の宝刀」と言ったのは最近異動してきた三ヶ日という三十代の営業だが、彼女が顧客と電話で話していることも興味深い。連絡の行き違いを「最近水星が逆行してますからねえ」と煙に巻き、最近は「所長から怒られが発生しました」と言っていた。若い人がよく使う言い回しらしいけれど、「怒られの発生」は役所でよく見る「賑わいの創出」と構造が同じだ。

『神と黒蟹県』

オリのない動物園

違う世代の人間は、それだけで別の生き物である。そのくらいの覚悟で関わるのがお互いにとってのマナーだと思っている。同世代しかいなかった学校生活と、その後に出ていく社会が根本的に異なるのはこの部分だ。ベテランのおじさんおばさん勢とその下の中堅、そして若者が、オリのない動物園状態でもみくちゃになって働く場所が、会社であり社会である。

上や下の世代に対する視線は互いに、不躾で無理解に満ちている。でもこれは歩み寄り不足なのではなく、共有してきた時代と期間が違うから、仕方ないなのだ。理解に努めたところで本当の意味で「わかる」ことなど不可能で、慮ることが限界。たまたま組織に居合わせた違う生物と、なぜだか共に仕事をして、教えを乞うたり、相手が持たないものを補ったりする。そこに行き交う眼差しの矢印は、どうしようもなく一方向だ。でもそれでいい。そこで生まれる、予想だにしない価値観と出会える可能性こそが、他人とはたらくことの美しい部分なのだから。

若者toおじさん

下記は黒蟹営業所に異動で赴任してきた30代女性社員・三ヶ日凡(みっかびなみ)から、前任の40代男性社員・雉倉豪(きじくらごう)への視線。自分は凡の同世代として、非常にわかりみが深い。前時代に流通していたと思われる価値観に違和感を感じるシーンは日常に多々ある。先輩が生きてきた時代を否定したいわけではなく、自分の世代の実感とは遠くてただ共感ができないのだ。それに加えて、その価値観が公然のものであると疑わずに会話を展開する姿勢、漫然としたコミュニケーションの態度そのものに憤りを感じることがある。

聞いてみるとDIYや釣りのためにホームセンターに通うのではなく、ホームセンターそのものが目的になっているらしい。その趣味が悪いとは言わないが、雉倉さんには日本のおじさんの終わりの全てを集めてテーマパークにしたようなところがある。

『神と黒蟹県』

「あの人、昔はすごくもてたんだよね」
それはわかる。お客の前での態度を見ればわかる。わかるけれども会社員として、いや人間としても既におじさん期間のほうがずっと長いのに、昔もてたといいうだけで一生涯、免罪されるというのはどういう仕組みなんだと凡は思う。(中略)まるで学歴ではないか。

『神と黒蟹県』

だがそんな不可思議な自信を持つ男が、自分に対しては余分なエネルギーを1カロリーたりとも使うまいとしていることが腹立たしい。そう言うと、十和島所長はやんわりと否定した。
「そうじゃないのよ。エネルギーを使わないんじゃなくて、もうないの。」劣化した充電池と一緒なの。もたないのよ。私だってそうだけど

『神と黒蟹県』

おばさんto若者

一方、50代女性の十和島絵衣子(とわじまえいこ)所長の視点。

おばさんは辛い。体力が一日持たない。疲れ果てて早寝すれば日付が変わったころに目が覚める。(中略)世のおばちゃん方がなぜ飴を持ち歩き、人にくれたがるのか、やっとわかった。唾液の分泌が不安定でふとした弾みに口のなかがカラカラになっていることに気づくのだ。だから飴を持ち歩く。人にあげるということは自分も舐めていいということだ。不調を隠しつつ愛嬌を前面に出して恩を売る。(中略)しかし駿河井からは「飴だって甘いじゃないですか。お菓子は断るくせに」と言われた。

『神と黒蟹県』

そもそも、世代を表すラベルはとても雑だ。若者は47歳も69歳も「おじさん」と思い、おじさんは23歳も35歳も「若者」と思う。もっと細かく名前がついていれば、という話ではない。それくらい、あまりに距離が遠くて互いによく見えていないのだ。加齢とともに直面する身体の変化も、未体験者には実感がなく心配することしかできないし、心配される側も、この耐え難い辛さを分け持てない人にいくら言葉を掛けられたところで、あまり慰めにはならないのではと不甲斐なく思えてくる。コンプラが叫ばれる時代になり、先輩方が若い頃に耐えてきた当たり前はそのままハラスメント認定される。価値観を探り合うためのコミュニケーションそのものにも地雷が潜んでいる、今の状況はきっと戦々恐々だろう。

人生のなかでおばさん、おばあさんである時間は長い。仮に十二歳までを子供とし、二十歳までを若者とし、三十五歳までを青年としてみよう。三十五歳から六十歳までをおばさんとすれば二十五年間。そこから八十五歳まで生きるとすれば再び二十五年間。どう思います? 愕然としませんかこの数値に。

『神と黒蟹県』

わからないことが鼠算式に増えていくのに、アップデートしろと言われることが恐怖である。それでもなんとか、若い人に迷惑をかけず邪魔をせずなおかつ不自由しない範囲で生きていきたいと思う。それは逃げの姿勢なのだろうか。

『神と黒蟹県』

“明るい空虚”の上演ステージ

会社内での仕事には、配属がありポジションがある。中規模以上の組織で働くとは、役職や担当という職場内におけるロールをまっとうすることであり、その席は良くも悪くも代替可能だ。前任と後任はほんの一時すれ違うだけの関係であり、そこにある“妙な清々しさと明るい空虚さ”は、組織内のポストという椅子が並ぶ仮想空間=人間が経済活動のために勝手に作り上げたステージ、そこに実際には何も存在していないことを示すような描写に思える。それくらいの諦念を持ってお気楽に参加しないと、組織での仕事なんてやってられないでしょうと、正社員の重荷を下ろした30代女性は今思っている。

会社員としてすべての重荷をおろせる瞬間は引き継ぎの瞬間にしかない。
去る者は新しく来た者に不足や頼りなさを感じ、新しく来た者は去る者に対して無責任だと思う。簡単に言えばお互いに「いい気なものだ」と思っている。しかし二人が妙な清々しさと明るい空虚さを共有していることも確かなのだ。からっぽな二人がただすれ違う、これが引き継ぎである。

『神と黒蟹県』


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