出雲国風土記を読み終えて、島根へ。
日本の古代史を少しかじると、現在の島根県(旧出雲国)はとても重要な土地であったことがわかります。
たとえば、古事記の大部分を出雲国での国譲り神話が占めていることや、当時の天皇が住まう京都御所よりも大きいこと、さらには仏教全盛の時代に移ろうなかで作られた奈良の大仏より大きいことなどからみても、日本の神社のなかでも頭一つ抜けています。
この時代は建物の大きさ=畏敬の念というところがありますから、それだけ古代の人々に重要だと考えられていたんですね。
明治になり神社省庁が発足し、神社は社格が定められ、国が管理するようになっていきます。そのなかで神社の社家制度は廃止されていくのですが、出雲大社は社家を残されています。
(社家制度:代々同じ家や一族が神主などの神職を務めること)
出雲国風土記が編纂された奈良から明治までは1000年以上経っていますが、近代化を推し進める明治政府にとっても出雲大社は特別だったようです。
出雲大社の社家は古代から今日まで脈々とつづいており、現在は84代目の千家尊祐(せんげたかまさ)氏が当主をつとめています。
ちなみに出雲大社の西側には千家家の邸宅が、東側には南北朝時代に分家として分かれた北島家の邸宅があります。
風土記とは?
風土記のなかでも現存しているのは常陸国、播磨国、出雲国、豊後国、肥前国の五国風土記のみであり、なかでも出雲国風土記は唯一の完本といわれています。
イメージを膨らませたくて1ヶ月かけてゆっくりと読みました。
出雲国風土記の構成としては、今でいうところの市がサブタイトルに出てきて、市の由来についてのエピソード、次に町の名前、町名についてのエピソード、市内にいくつの神社があるか、村があるか、山川があるか、そこで採れるものや古くから伝わる伝承などが詳細に書き記されています。
読んでいて面白いなと思ったのは、由来についてわからないものは「わからん」「不明」とはっきり書いてあるところです。当時の出雲官僚の実直さや真面目さが感じられて、ほっこり和みました。
島根に到着し出雲大社へ!
まずびっくりしたのは山陰の天気と気温。大阪生まれ大阪育ちですから、超無知でした。山の天気とはこのことか!と驚きの連続でした。
出雲に滞在していたのは半日でしたが、その間に晴れ・雷・小雨・大雨・狐の嫁入り・曇り・霰・また晴れと大阪ではあり得ない天気の移り変わりでした。
出雲大社駅に到着した時点では雷がゴロゴロと音を立て小雨に。しかし大鳥居に近づくにつれ晴れに変わり、写真のとおり美しい空模様になってくれました。
この湧き立つ雲を見たとき、素戔嗚命が詠んだとされる日本最古の短歌の一節「八雲立つ」が思い出され、とても感動しました。
中を進み、祓社をまず参拝。立派な松が立ち並ぶ参道を歩きます。
すると私の推しである大国主命の像が右手に現れました。想像していた十倍大きい...!!
手水舎で再度お清めをし、四の鳥居をくぐり拝殿へ。ちなみにこの四の鳥居は青銅製で毛利元就の孫の孫にあたる毛利網広が寄進した国重要文化財だそう。
拝殿を参拝した後は本殿を参拝し、境内をぐるっとまわり神馬像をナデナデしたり、大国主命の父神である素戔嗚命を祀っている素鵞社(そがのやしろ)を参拝したり、十九社(神有月に神さまたちが泊まるお宿)を眺めたり宝物殿に入ったりと大忙しでした。
十九社に対して「神ホテルやん」と呟いた私に友人が笑ってくれたのも印象的です。(だって本当に神ホテルやん)
神さまの宿泊施設まで作ってしまうところが日本人の感性そのものであるように思え、じーんとしてしまいました。
その後、かの有名な神楽殿へ。出雲大社といえばここ!というイメージがありますよね。
風土記と大国主命
出雲大社の本殿に祀られているのは大国主命。この大国主命は古事記などの中央が編纂した書物にも度々登場する一方、出雲国風土記にも度々登場します。風土記では大国主大神と呼ばれ、「大神が〜とおっしゃった。だからこの地名は◯◯と呼ぶ」というエピソードがたくさんあります。
島根県には風土記の時代から変わらず地名が残っているところも多く、石見(いわみ)、安来(やすぎ)、仁多(にた)なんかは古い日本語の音や趣を感じられますよね。
また、大国主命は神仏習合の時代には大黒天と同一視され福徳をもたらす神様として信仰を集めました。そのほか、大国主命は大物主(おおものぬし)、大己貴命/大穴牟遅命(おおなむちのみこと)とさまざまな別名や不思議な逸話のある神様です。
神話/神様として扱われてはいるものの、紐解くと明らかにモデルとなる人間が実在しただろうというのが調べてみて腑に落ちた見解です。国譲り神話などの具体性もそうですし、「大国主」とは称号そのものであるという説もあります。
それを考えると、大国主の別名である「大物主」も明らかに讃えるための称号だと考えられますよね。大物と呼ばれるにふさわしい立派な王さまだったのでしょう。
日本では古来より怨霊信仰がありますから、戦で負けた側の人間や無念の死に伏せた人に対して、祟りをおこさないよう手厚く神として祀ります。
左遷され無念のうちに亡くなった菅原道真が祟りを起こし、その怨霊を鎮めるために天満宮が建てられ、のちに天神様と呼ばれ、さらにその後学問の神様の代名詞となったように、大国主も元は人間としての名前があり、しかしその名前は残らず、神としての名前だけが現代まで伝わっている......と考えるのが自然なように思います。
今のところ、この説の裏付けになりそうなのは古代出雲には一帯を収める優れた製鉄技術をもった豪族がおり、出雲王朝が存在したことがほとんど確定していることです。
このことは否定的な意見もあったようですが、荒神谷遺跡から大量の剣が出土したことで真実味を帯びました。
さらに出雲は地理的にも文明が栄える条件が十分にそろっています。北には日本海、そして宍道湖や中海など湖がたくさんあることから潤沢な水資源があり、山からは鉄が採れる。このことから先史時代に栄えた文明があってもなんら不自然ではありません。
また、中国や朝鮮半島から大陸を引っ張ってきて今の島根県にくっつけましたよ、という風土記内で語られる出雲国固有の国引き神話に関しても、考察の余地がありそうです。
当時優れた製鉄技術などをもつ中国人や朝鮮人が移り住んできた・またはヘッドハンティングしたということを暗に言いたいのかもしれませんし、かなり積極的な交易や交流があったのかもしれません(実際に中国製、朝鮮製の土器などが発掘されています)
風土記が編纂されたのは奈良時代のことですから、出雲王朝があったとされる先史時代を考えてみるとかなりのタイムラグがあります。
古事記や日本書紀の「初代神武天皇の即位は紀元前660年」をそのまま鵜呑みにして考えてみると、出雲王朝の存在はそれ以前の時代ということで、奈良時代の人からみたときに1300年以上は昔の話ということになります。
このことから、風土記で語られる国引き神話やその他の逸話は奈良時代の人にとっても遥か大昔のことであり、今の私たちと同じような感覚で受け止めていたのかもしれません。
さいごに
一泊二日の滞在だったため駆け足での旅となりましたが、どこに行っても空気が綺麗で人がやさしく、島根が大好きになってしまいました。
今回は12月の旅行だったので叶いませんでしたが、出雲大社といえばやはり神有月の神迎えの神事を見てみたい。石見地方に伝わる石見神楽も見てみたいし、出雲国造(いずものくにのみやつこ)=千家家が代替わりする際の神事として、神火(じんか)を切り出すという熊野大社も気になります。
風土記、千家家など出雲国造についてのこと、大国主が推しな理由、古代出雲王朝......まだまだ語り尽くせませんが、今回はこのあたりで締めようと思います。再訪問がとても楽しみです。
それでは、本日の思ほゆでした。