見出し画像

映画『銀河鉄道の夜』の猫

先月9月の末、『銀河鉄道の夜』が映画館で公開されているのを知って、観に行ってきました。映画館のスクリーンで鑑賞するのは初めてです。
初めてこの作品を鑑賞した時、登場人物たちが猫になっているところに驚き、「なんで猫?」という違和感がありました。
けれど、鑑賞するうちに全く違和感はなくなり、もうこの映画は猫以外は考えられないと感じるほど自然で優しい気持ちになれました。

ジョバンニやカンパネルラなどの登場人物を「猫」に変えて独特の世界を創り上げた杉井ギサブロー監督の手腕に感じ入りました。ますむらひろしさんの漫画に着想を得たというこのキャラクター作りは、鑑賞者が自由に想像を膨らませるようあえて人間の生々しさを避けてシンボリックに仕立てられているとのことです。

今回スクリーンで鑑賞して、ジョバンニの眼の表情が実に豊かで、その微妙な動きだけで心情を伺い知れることにも驚きました。
細野晴臣さんの音楽も素晴らしく、冒頭に流れるもの哀しい民族音楽のような旋律を聴いただけでもう胸がいっぱいになります。
あらためて名作だと感動して、鑑賞後思わずBlu-rayを購入してしまいました。

『銀河鉄道の夜』は多くの方が指摘されているように実に複雑な構成になっています。私が初めて読んだのは多分中学生の頃だったと思いますが、ジョバンニが列車に乗ってからの話が複雑でとりとめもなく展開していくのであまりよく理解できなかったように思います。
最後の場面のカンパネルラのお父さんの様子も何だか冷たくて納得が出来ませんでした。(子供が川に流されたというのに、何故こんなに冷静でいられるのでしょう・・・?)賢治の未完の作品ということもあるでしょうが、原作を何度読み返しても未だに「ん?」と首をひねる不思議な箇所が幾つもあります。それでも私はこの『銀河鉄道の夜』はそれまでの様々な賢治作品の要素が積み重なった集大成のように思われ、これまで読んだ賢治作品の中でも最も好きな作品です。読み返すたびに新しい発見や疑問が湧き、尽きることがない魅力に満ちていると思います。

原作から話がそれるのですが、今回映画を鑑賞して、一つ不思議に思ったことがありました。映画の中ではジョバンニやカンパネルラ、鳥捕りなどは人間ではない動物の姿になっているのですが、後から船が沈んだために乗車してくる青年や幼い姉弟は人間の姿をしているのはなぜなんだろうということです。しかも青年や姉弟はジョバンニたちが猫の姿をしていることに何の疑問も感じていない様子で普通に会話をしています。
これは彼らが私達観客が見ている姿とは違って、もしかすると魂の交信によって会話をしているためではないかな、とふとそんなことを夢想しました。

この映画で登場人物たちが猫の姿をしていることで思い出すのは、賢治作品の『猫の事務所』です。この作品に出てくる「かま猫」は他の猫とはちょっと姿が違うことから仲間はずれにされ、意地悪い仕打ちをされます。
「かま猫」はとても孤独なのですが、皆の仕打ちに歯向かうこともできずじっと我慢をする猫です。どこかジョバンニに共通する淋しさを感じます。
猫という動物は人間の眼からみると、時に気まぐれで意地悪そうに映ったりするのですが、反面ひとりぼっちの孤独な様子の二面性を持ち合わせているようにも思います。
ザネリのような意地悪っ子がいる反面、ジョバンニのような孤独を抱えるキャラクターを描くのに「猫」は最適だったのではないかと思います。

映画の最後では、『春と修羅』の序の冒頭が朗読されるのもまた素晴らしく、見終わったあともしばらく不思議な世界の余韻に浸っていました。

#銀河鉄道の夜
#宮澤賢治
#映画
#杉井ギサブロー
#ますむらひろし
#細野晴臣
#ジョバンニ
#猫の事務所
#春と修羅

いいなと思ったら応援しよう!