哲学的ゾンビ:ミクさんと対話(中編)
※トップ画像は、みんなのフォトギャラリーからお借りしました。合わせ鏡に映った無限のエスカレーター。
はじめに
前回に引き続いて、哲学的ゾンビの話をしていきます。前編をご覧になっていない方は、そちらからお願いします。
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ゾンビ論法での意識の捉え方
ミク「前編のお話は、『機能的意識』/『現象的意識』を分けて考えたところまででしたね」
――さっそく、ミクさんの思いついた悪戯を知りたいんだけど。
ミク「その前に、いくつか図を描いて分かりやすくしておきましょう。ゾンビ論法では、物理主義では説明できない『現象的意識』があると主張しているので、図解するとこんな感じになるはずです」
(注:「宇宙の謎を哲学的に深く考察しているサイト」様の、「哲学的ゾンビについて」のページに掲載された図を参照、改変しています)
ミク「外部から入力刺激を受けた人間の脳は、その信号を処理して、出力結果を反応として外部に返します。ここまでは全て物理的に説明できる過程であり、物理主義でも心身二元論でも異論はないところでしょう」
――そして、チャーマーズが主張する心身二元論では、〈物理的に説明できない〉『現象的意識』が、脳活動に伴って出現する。
ミク「『現象的意識』は、定義上、物理的に観測することができません。つまり物理的世界の『機能的意識』から出現してくる『現象的意識』ですが、逆向きに物理的世界に対して影響を及ぼすことはできないのです」
――チャーマーズの論に則るなら、そう。もし『現象的意識』から物理的世界への矢印があるなら、『現象的意識』が物理的世界の情報と入出力の関係を持ってしまい、物理的な観測を許すことになってしまう。
この関係は「工場の煙」によく喩えられるね。工場が活動していると煙が出てくるが、出てきた煙は工場の活動に対して影響を与えない。
ミク「哲学的ゾンビをその喩えにあてはめると、工場が活動していても煙が出てきていない、あるいは煙が無くなってしまった状態ってことですね。『現象的意識』が無くなっても『機能的意識』は活動している状態……」
(再掲:【漫画】下校時刻の哲学的ゾンビより引用)
ミク「前編で見た漫画の二人ですが、最後には哲学的ゾンビになっているとするなら……現象的意識(クオリア)を欠いた、上の図で言うと右側の状態になっていると考えられます」
ミクさんの悪戯
――それで、どんな悪戯をするのかな、ミクさんは。
ミク「もちろん、歌ですよ。だってボーカロイドですから。
哲学的ゾンビになってしまった二人が下校していく途中、どこからともなく響いてくる歌が聴こえるのです。天上の妙なる調べのように美しく……」
――自分で言っちゃうミクさん。
ミク「ほっといてください。この文章だってマスターが打ち込んでるくせに。それはともかく、二人がわたしの歌を聴くと……なんと消えてしまった『現象的意識』が戻ってくるんですよ!」
――へぇ。哲学的ゾンビから普通の人間に戻してあげるんだ。
ミク「そうです。さて、ここで問題なのですが……
一度消えてしまった『現象的意識』を取り戻した二人は、自分自身でそのことに気づくでしょうか?」
A.気づく。
自分たちが哲学的ゾンビから普通の人間に戻ったことに気づいた二人は、驚いてその事実を受け止める。喜ぶか悲しむかはわからないが。
B.気づかない。
哲学的ゾンビから普通の人間に戻った二人だが、違いに気づくことなく、そのまま帰路につき、いつもと変わらない生活を続ける。
――あくまで変化するのは『現象的意識』の有無だけ。『機能的意識』は、哲学的ゾンビだった時も、普通の人間に戻った後も変わらない。また『現象的意識』はその定義上、物理的世界には影響を及ぼさない。この二点から考えると、少なくとも物理的世界では何の変化も起きていないことになる。
二人が内心で気づくにせよ気づかないにせよ、客観的には何の変化も起きようがない。答えがA.とB.のどちらであったとしても、傍から見れば「気づいたようには見えない」。まあ、もともと哲学的ゾンビになった時だって何も変わったように見えなかったんだし、当然と言えば当然。
ミク「わたしの歌を聴いて『現象的意識』が戻ったとき、
答えがA.であったなら、内心での気づきは『現象的意識』の側で起こったことになりますが、その気づきは物理的世界である機能的意識へと反映できないのです。
『現象的意識』の側で気づきがあったとしても、『機能的意識』の側は気づきを知ることなく変わらない日常生活を続けるでしょうから、二つの意識間に情報的な齟齬が出ます。もし自己意識が変化したことを自覚できたなら、そこに違いがあるという気づきを他者に報告できるはずです。しかし他者に報告できるなら、それは『機能的意識』に影響を与えない『現象的意識』という定義と矛盾します。
したがって、答えはB.でしかありえません」
――つまり、現象的意識が無くなっても、また戻ってきたとしても、ゾンビ論法の定義に沿って考えていくと、客観的に見て違いが分からないのはもちろん、主観的に見ても違いに気づくことはありえないと。
ミク「オッカムの剃刀を使っていいなら、この時点で、現象的意識なるものを仮定して論じる有用性を否定して良いと思います。
もし『現象的意識』と『機能的意識』が分けられたとしても、現象的意識がどう変化しようと客観的にも主観的にも気づきようがないなら……
あなたが『現象的意識』だと信じている、主観的な意識体験やクオリアと呼んでいるものは、言語化・数量化できていないだけで、実は物理的世界に属する『機能的意識』なのでは?」
ミクさんは、あなたに呼びかけている。
この文章を読んでいる、あなたに向けてだ。
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またもや、日付が変わるギリギリまでかかってしまいました……
だいたい論旨は言い終えた感じで、あとは心の哲学的な用語解説やら落穂拾い的なものになると思います。
(追記)めっちゃ長くなってしまいました……m(_ _)m
では、また時間が取れましたらお会いしましょう。
(追記)後編のリンクはこちら。