男女の容姿に関する感じ方の違い、同性愛的感性について考察
自分が女性だから、同性である女性の美醜は細かいところまで一目で判断がつく。
一方男の顔の美醜はそれほど段階分けできない。
自分が男でもなく、思春期に女子校だったから男の顔を見慣れていないということがまず一つ。
そして男にそれほど興味もないから、普段から一般人であれ、メディアに出るような有名人であれ、男の顔をよく見ていないからである。
それ以前に、男の顔を見ることに拒否感がある。
男は自分とは別の生き物だから、本能的に拒否感を覚えるのだと思う。
女に関しては、同性だからこそ粗が分かってしまって、スーパーモデルレベルでないと美しいとは思えない。
タレント、女優、大衆雑誌のモデルなどは皆中途半端な人たちだと思う。
突き抜けた美しさもなければ、中身が優れているわけでもない。
スーパーモデルの容姿に比べれば、彼らは一般人といっても良いような程度である。
異性への興味というものは一方的な、欲を土台とした夢想の仮託のことが多い。
そんなふうに異性を恋愛対象として捉えていると、感性が鈍って現実を見極められない。
けれど同性に関しては、殆どの人にとっては同性は性欲対象ではないから見た目を冷静に見極められる。
あたかもモノを価値判断する時の視点と同じように。
だから一概に言うと人間の容姿の優劣を測定する精度は同性の方が鋭く、正確である。
トーマス・マンの『ヴェネツィアに死す』は男だからこそ真に美しい男の姿を厳密に捉えていることを描いている。
それと同じように、私は、自分が女だからこそ美しい女の希少性が分かる。
それは実感を伴った現実の理解である。
美しく存在している人間の在り難さは同性だからこそ分かるから、同性からの賛美には嘘がない。
私は真に美しい人を見ると驚嘆する。
そして私の場合男性に興味がないから男の美醜を判別する時も女の美醜を判別する時と同じようにモノを判別するように区別している。
私が思うのは、動物は毛が多い、人間の男は毛が多い、筋肉も太い、だから男は動物に近い、ということ。
毛が色んなところに生えているのも、筋肉が太く主張しているのも不格好である。
だから、ダンサーの体は美しい、と言われたりするが、生きていくのに必要以上の筋肉がついている姿、筋肉のせいで太く短く見えているダンサーの肉体は実際は男女問わず見苦しい。
女の方が男よりは動物からかけ離れた進化した姿をしている。
よって人間の場合、男より女の方が優れていると考えられる。
人間の肉体の中でいちばん美しい状態は、女の、それも少女の、細くて柔らかくてしなやかな体だと思う。
動物に近い男ではなく、女、そして生殖の気配がない植物のようにしなやかな肢体。
これこそが最も動物的存在からかけ離れた人間の美しい状態である。
私は、男と女を比べればまだ女の方がマシな見た目だと思う。
男で美しい人は滅多にいない。女性で美しい人はたまに見かける。
男は、たいていの人間がむさくるしい。
スッと水際立って美しい人は全然いない。シューカイ氏くらいか。
男というのはむさくるしい生き物なのだ。そういうわけで、私は男性に興味をもてない。
だから、女が男を選ぶのは、優れている女がわざわざ劣っている男の相手をしてやるのだから当然だと思う。
外を歩いていても、女は視界に入れても男は視界になるべく入れない、もし視界に入ってしまっても詳細を判別しないことにしている。
醜いものをまじまじと見るのが嫌だから。
しかし女である私とは男はまた感じ方が違うかもしれない。
私は、男の同性愛的視点にはナルチシズムが入っていると思う。
それは、男の方が女より優れているから、男が好き、自分も男だから自分も優れている、という論理である。
同性が好きな感覚というのは、劣等感とナルチシズムという表裏一体の感情から来る。
同性愛者でない男にも女性を立ち入らせない男同士の連帯意識があり、それは恐らく同性愛的視点と同じく、ナルチシズムを土台とした絆、と彼らが思い込んでいるものなのだろう。
日本の男社会はこの男色的感覚で男自らの脆弱なプライドを守りながら成り立っているのだと思う。
それは一般企業はもちろんだが、色濃く表れているのは自衛隊など肉体労働と序列化の強い職である。
よって三島由紀夫は体を鍛え自撮り写真集を作り自衛隊に仮入隊した。
この体を鍛えるというところに同性愛の裏面である劣等感が表れている。
同性愛的視点は肉体のフェティシズムに表れやすい。
自分が劣っている箇所が、相手の方が美しければ、憧れ、執着してしまう。
そして相手の美しい肉体の部分を自分のものにしたい、という欲が発生する。
これが恋愛感情になっていく。
三島なら筋肉だし、長沢節なら長くて細い脚である。
長沢はせめて自分も細くあろうとした。
しかし男も女もスーパーモデルほど美しい人間というのはほとんどいないから、人間は例えばどこかパーツだけ美しいとしても、その他はダメである。
どこもかしこもダメな人間もいるが。
だから人間というものはどいつもこいつも不細工なのである。
一般人の肉体の部分的に美しい箇所を称賛したり、スーパーモデルという完璧な人間をメディア越しに愛でることしかできない。
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