『シンエヴァ』から見えた交換原理の変化
私、締切を守らないのに生きている。なぜ?
その火を飛び越して来い
海外にいると映画が安くしかも割と早く観ることができるのでいい。しかし、邦画にとことん疎くなる。今回書こうと思った『シン・エヴァンゲリオン劇場版』もその例に漏れない。2021年3月に日本で公開された本映画もアマゾンプライムでようやく8月あたりに観ることができた。ただ、書こうと思えたのはこの5カ月ものブランクがあったからだろう。もし日本で3月に観ていたら書く気にならなかったと思う。そんな時期に日本でシンエヴァについて書いてしまえば、それこそ『潮騒』的にその火を飛び越して来いと言われて、素直に燃えてしまう虫である。でも、劇場公開からもうすぐ8カ月が経つ今なら別に何を書こうと火傷ぐらいにしかならないだろう。
大人としての庵野秀明
庵野秀明は大人になってしまったのだ、しかもあの長い長いエンドロールに連なる人々の生活を支える大人に。だからアニメーションというループを抜け出して実写へと走り出せたのだ。エヴァというループを切断し、自分を有限的な生へと開放したのだ。自分の才能では終わらせきらない作品ということを悟り、絶望し、死にたいと思いつつも、死ぬのは痛いから死ねない少年は、この自分が作った作品と知り合えたことを死ぬまで、死ぬまで誇りにしたいからこの作品を終わらせて弔うことを決意し、実際に成功した。私にとって『シンエヴァ』とはそんな作品だったのである。
これまでの庵野秀明作品と『シンエヴァ』が決定的に異なるのは、つまり少年から大人に変わったことが顕著に表れているのは、交換原理である。『ふしぎの海のナディア』のフェイトの死に表れているように、庵野秀明は基本的に等価交換をその交換原理に置いている作家である。つまりは、何かを得るためには何かを犠牲にしなくてはならないという原理である。これを市場原理とも言う。例えば、コーヒーを買う際に代金を払うように。『シンエヴァ』でも碇ゲンドウを通して「願いを叶えるためには報いが伴う」と言わせている。「そんなこと、普通じゃないか」と緒方恵美さんの声が聞こえてくる。それは違う。そんな原理がマジョリティーになったのはここ200年そこらだ。それ以前からそして今でも消えていない原理が、贈与交換(/互酬性)の原理である。(ここでは分かりやすくするために3類型や4類型をざくっと2項対立に分けています。)
贈与という交換原理
贈与について語る時にはやはりいつでもモースまで戻ろう。モースは、贈与を構成する3つの義務を定義している。それは与える義務、受け取る義務、返礼の義務である。庵野の『シンエヴァ』以前の作品は、すべてにおいてそれらを拒絶する。与えず、受け取らず、返さないのである。ここでエヴァループに入る頃の彼の作品を観ていく準備が整った。『The End of Evangelion』を撮り終えた庵野が最初に向かった作品が『ラブ&ポップ』、村上龍原作の援助交際を題材とした作品だ。主人公の佑美は渋谷でたまたま見つけたトパーズの12万円もする指輪が欲しくなり、友達3人の協力のもと援助交際で12万円を手に入れる。しかし、佑美はこれは4人で手に入れた12万円だからという理由でそれを3万円ずつでみんなで分けたいと申し出る。友達の協力なしで自分を犠牲にして得たお金だけで、12万円の指輪を手に入れようとする。佑美は友達からの9万円をどうしても受け取ることができない。贈与の受け取りを拒否するからこそ、与える必要も返礼する必要もない。ここに『シンエヴァ』以前の庵野秀明のすべてが凝縮されている。
待つという贈与
たしかに庵野(≒シンジ≒ゲンドウ)は等価交換という原理で動いていた、『シンエヴァ』以前は。周りの人がどんなに優しく接してくれても、それを受け取れない。なぜならそれを受け入れた時、まさにその時に返せるものが彼にないからだ。自分には何もない、だから返せない、だから受け取れないという等価交換の原理に支配されていた。しかし、『シンエヴァ』では、明らかにそれが逆回転している。何もない、だから今は返せない、だけど受け取る、受け取ったものを時間差があっても与え返す。この遅延性こそ、贈与の特徴である。そしてQから9年、庵野秀明/エヴァのファンは待ち続けた。待つとは与えることだと言ってたのは確か鷲田清一だったと思う。「期待せずに待つ」という大変な行為をしているファンを受け入れることができ、それをどんな時間をかけてでも終わらせることで与え返す。庵野は『シンエヴァ』を機に、等価交換原理のループからの脱却を図れたのだと思う。私にとって『シンエヴァ』とはそんな作品だったのである。
受け取る義務と賭けについて
『シンエヴァ』で庵野はゲンドウにこう言わせる。「他人の死と思いを受け取れるとは、大人になったな、シンジ」と。ここでゲンドウとシンジの逆転があからさまになる。大人のようにみえるゲンドウこそが子供っぽい願望にとりつかれた美しい夢想家である一方、子どものようにみえるシンジこそが他人の死と思いを受け取れ、それを背負い、引き継ぎ、その幽霊とともに生きていく大人である。(だからこそ、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』や2000年の『ドラえもん のび太の太陽伝』と同時上映の『おばあちゃんの思い出』はまずいのである。成長してループから抜け出してしまうからまずいのである。)
ループしていたテープレコーダーが次のチューンを繋げる。そしてその次の曲は頭から歌える。そんな歯車が回り始めたのはマリこと安野モヨコの出現からだろう。ユイ≒レイではなく、マリだったのは安野モヨコとの出会いがあったからこそだろう。
時間というのは非常に残酷だ。愛している人を一瞬にして消してしまう。でも、マリ≒安野モヨコは「どこにいても必ず迎えに行くからね、待ってなよワンコくん」と言ってくれた。庵野≒シンジも待てるのだ。根拠のない事柄に対して「期待せずに待つ」という行為が取れるのだ。それはLeap of Faith、ある種の信に基づく賭けである。そして、シンジ≒庵野は「その火を飛び越して来い」という博打に勝ち、マリ≒安野モヨコも、そして庵野/エヴァファンもその賭けに勝ったのである。間違いなく勝ったのである。あとは私たちにできることとすれば、今後庵野が手掛ける「シン・シリーズ」を信をもって見届けることしかないのではないだろうか。