「汝自身を識れ」——社会的共同生活の理想と反社会的なものの批判(シュタイナー『歴史徴候学』第四講より)

バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教を宣べて言った、『回心せよ、天の王国は近づいた』。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」。(マタイ2章3章1-3節)

 本ノートは、高橋先生がご自身の『歴史徴候学』の訳のあとがきで本講義の肝だと仰っている極めて重要な箇所について取り上げたく思います(p.112~113)。しかし、残念ながらそこで言われていることも、私見ではかなり書き換えられているか、はっきり理解できないような文になっています。そこで、私訳とその訳の解説をつくりました。

Dasjenige, was der Menschheit einzig und allein Heil bringen kann gegen die Zukunft hin - ich meine der Menschheit, also dem sozialen Zusammenleben -, muß sein ein ehrliches Interesse des einen Menschen an dem anderen. Dasjenige, was dem Bewußtseinszeitalter besonders eigen ist, ist Absonderung des einen Menschen vom andern. Das bedingt ja die Individualität, das bedingt die Persönlichkeit, daß sich auch innerlich ein Mensch von dem andern absondert. Aber diese Absonderung muß einen Gegenpol haben, und dieser Gegenpol muß in dem Heranzüchten eines regen Interesses von Mensch zu Mensch bestehen. Dieses, was ich jetzt meine als Hinzufügung eines regen Interesses von Mensch zu Mensch, das muß immer bewußter und bewußter im Zeitalter der Bewußtseinsseele an die Hand genommen werden. Alles Eigen-Interesse von Mensch zu Mensch muß immer mehr und mehr ins Bewußtsein heraufgehoben werden. Sie finden unter den, ich möchte sagen, elementarsten Impulsen, die angegeben werden in meinem Buche «Wie erlangt man Erkenntnisse der höheren Welten?», den Impuls verzeichnet, der, wenn er für das soziale Leben praktisch wird, gerade nach Erhöhung des Interesses für den Menschen hinzielt. Sie finden ja überall angegeben die sogenannte Positivität, die Entwickelung einer Gesinnung der Positivität. Die meisten Menschen der Gegenwart werden geradezu mit ihrer Seele umkehren müssen von ihren Wegen, wenn sie diese Positivität entwickeln wollen, denn die meisten Menschen der Gegenwart haben heute noch nicht einmal einen Begriff von dieser Positivität. Sie stehen von Mensch zu Mensch so, daß sie, wenn sie an dem anderen Menschen etwas bemerken, das ihnen nur nicht paßt - ich will gar nicht sagen, das sie tiefer betrachten, sondern das ihnen von oben her betrachtet, ganz äußerlich betrachtet, nicht paßt -, so fangen sie an abzuurteilen, aber ohne Interesse dafür zu entwickeln, abzuurteilen. Es ist im höchsten Grade antisozial für die zukünftige Menschheitsentwickelung, solche Eigenschaften an sich zu haben, in unmittelbarer Sympathie und Antipathie an den anderen Menschen heranzugehen. Dagegen wird es die schönste, bedeutendste soziale Eigenschaft für die Zukunftsentwickelung sein, wenn man gerade ein naturwissenschaftliches, objektives Interesse für Fehler anderer Menschen entwickelt, wenn einen die Fehler anderer Menschen viel mehr interessieren, als daß man sie versucht zu kritisieren. Denn nach und nach, in diesen drei letzten Epochen, die noch folgen, der fünften, sechsten und siebenten Kulturepoche, da wird sich der eine Mensch ganz besonders immer mehr und mehr mit den Fehlern des andern Menschen liebevoll zu befassen haben. Im griechischen Zeitalter stand über dem berühmten Apollotempel das «Erkenne dich selbst». Das war dazumal im eminentesten Sinne noch zu erreichen, die Selbsterkenntnis, durch Hineinbrüten in die eigene Seele. Das wird immer unmöglicher und unmöglicher. Man lernt sich heute kaum noch irgendwie erheblich kennen durch das Hineinbrüten in sich selbst. Weil die Menschen nur in sich selbst hineinbrüten, deshalb kennen sie sich im Grunde genommen so wenig, und weil sie so wenig hinschauen auf andere Menschen, namentlich auf das, was sie Fehler der anderen Menschen nennen.

 将来、人類に浄福をもたらすことのできる唯一のものは、他者に対する誠実な関心でなければなりません。ここで言っている人類というのは社会的共同生活のことです。意識[魂]の時代に特に特徴的なのは、他者との疎隔化です。内的にも他者との疎隔化が、個性、人格をつくります。しかし、この疎隔化には対極がなければなりません。そしてその対極は、人々がお互いの間に生き生きとした関心を育むことにあるべきなのです。意識魂の時代では、人々はお互いの間に生き生きとした関心をますます意識して持たなければなりません。[ただしその際に]お互いの間の自分本位な関心の一切に、よりいっそう気を配らなければなりません。拙著『いかにしてより高次の世界の認識を獲得するか?』に記された最も基本的な諸衝動のうちには、社会生活に実用化されれば、まさに人間に対する関心が高まることが目指される衝動があります。いわゆる前向きであることが、前向きな態度を育むことが、この本のいたるところに書かれています。皆さんにはそのことがわかるでしょう。現代人の多くは、このを育もうとするならば、これまでの生き方からまさに回心する必要があります。というのも、現代人の多くは、こんにちまだこの前向きであることについて把握していないからです。現代人の多くは、相手の何かがただ自分の意にそぐわないことに気づくと―—私が申し上げたいのは、彼らがその相手の何かをより深く考察するのでは全くなく、それを上から目線で、全く浅薄に考察する場合の「自分の意にそぐわない」ということです―—即座に相手を非難します。相手に関心を持たずに、即座に非難するのです。自分自身の中にそのような[自分本位な]特性を持ち、すぐに共感や反感で他者にアプローチすることは、人類(社会的共同生活)の将来の進化発展にとって最高度に反社会的なことなのです。これに対して、それが将来の進化発展にとって最も素晴らしく、最も意義のある社会的な特徴となるのは、人が他者の欠点・過ちに自然科学的・客観的関心を持つときです。他者の欠点・過ちを非難しようとするよりも、それにもっと関心を持つときなのです。というのも、なおも続く[後アトランティス文化の]最後の三つの時代、即ち第五文化期、第六文化期、第七文化期では、人々は次第に、特に他者の欠点・過ちにますます真心を尽くして取り組まなければならなくなるからです。古代ギリシャの有名なアポロン神殿の上には『汝自身を識れ』という格言が掲げられていました。当時の人々はまだ、自己の魂を顧慮することによって、最も重要な意味での自己認識に至っていました。それは[こんにちにおいては]ますます不可能になりつつあります。現代人は自分自身に夢中になっていますから、最も重要な意味での自己認識に至ることがまだほとんどありません。なぜなら、彼らは自分本位になるが故に、根本的に自己認識(お互いの認識)にいたることがほとんどなく、他者、特に他者の欠点・過ちと呼ばれるものにほとんど気を配らないからです。(シュタイナー『歴史徴候学』第四講より私訳)

【訳の解説】
①「[ただし、その際には]お互いの間の自分本位な関心の一切に、よりいっそう気を付けなければなりません。」
 
ここのドイツ語の原文の脈絡は、なかなか読み取りにくいものになっていると思われます。高橋訳は「自分のうぬぼれや利己心も、ますます意識化されなければなりません」となっています。またネット上にあるA. H. Parker氏の英訳ではこの部分がそもそも訳されていません。Parker氏には意味が分からなかったのか、それとも前文と同じ意味と取ったのか、或いは訳さなくても意味は通ると思われたのか、それは私にはわかりません。Eigen-Interesseの意味が取りにくく、前文との接続を見て取るのが難しいのは事実です。私訳はこれを自惚れや利己主義、利己心、私利私欲といった風には訳さず、「自分本位な関心」と訳しました。その理由は、後文との意味の関連で分かります。この「自分本位な関心」は明らかに前文で言っているein ehrliches Interesse(誠実な関心)や、eines regen Interesses(生き生きとした関心)とは対極的な関心を意味しています。文脈をとれるよう、付け足しとして「ただし、その際に」を付け加え、ins Bewußtsein heraufgehoben werden(意識に高められる)を後述する文との関係から「気を配る」と意訳してみました。

②「現代人の多くは、相手の何かがただ自分の意にそぐわないことに気づくと―—私が申し上げたいのは、彼らがその相手の何かをより深く考察するのでは全くなく、それを上から目線で、全く浅薄に考察する場合の「自分の意にそぐわない」ということです―—即座に相手を非難します。相手に関心を持たずに、非難するのです。」

 ここのnicht paßt(意にそぐわない)の内容の説明により、前述の「自分本位な関心」と、後述のaburteilen(即座にネガティブな評価を下す)、kritisieren(非難する)の意味の関連が理解できます。高橋訳は、ハイフン内のich will gar nicht sagen, das sie tiefer betrachten, sondern das ihnen von oben her betrachtet, ganz äußerlich betrachtet, nicht paßtを「私は深い心理を問題にしているのではなく、外から観察できる場合を言っているのですが」と訳しています。私見ではここが意図不明の書き換えになっており、文意がよく読めません。しかもここはかなり肝心なことを言っているところです。Parker氏の場合は、I do not mean something to which they have given careful consideration, but something which from a superficial angle meets with their disapproval.と訳しているので合ってます。ただ、von ober herとäußerlichということでa superficial angleと一つにまとめてしまっています。私はここのシュタイナーからもっとインパクトの強い意味をとりました。von ober herは「上から」ということですが、相手の何かに対して「上から」考察するということで「上から目線で」と訳しました。こう訳すことで、シュタイナーが社会的共同生活を営む上では根源的に悪としているところの「上下関係」、「権力の支配服従関係」の発生源である、「権力への意志」を捉えることができると思われます。その虜となることは、人類(社会的共同生活)の、本来進むべき神的な進化発展の道を進めなくさせる、全く反対に最高度に反社会的なことであるということになります。自分本位な関心を他者に向けているに過ぎないわけですから。
 ところで、ここのgar nicht … sondern … von oben her betrachtet, ganz äußerlich betrachtetのsondernの前にtiefer betrachtet(より深く考察する)とあります。「より深く考察する」は、つまりここでシュタイナーが言いたいところの「自分の意にそぐわないことに気づくと即座にネガティブな評価を下す」、「自分本位な関心で他者にアプローチする」、「非難する」こととは対極にある、「誠実な関心」や、「生き生きとした関心」、「自然科学的・客観的関心」、「前向きであること」、「前向きな態度」の方に関連すると考えることができます。kritisierenの場合は、本来、tiefer betrachtetの意味とvon oben her betrachtet, ganz äußerlich betrachtetの両方の意味がありますから、シュタイナーはここであえて、意味を後者に限定していることになります。ここで、kritisierenの訳語が問題となります。ご存じのように、「批判」と訳すと、Kritikと同じく上記の二つの意味があります。私は「批判」という言葉を「より深く考察する」という意味のための語として取っておきたいと考えました。というのも、それは「自然科学的・客観的関心」からくる「批判」ですから、シュタイナーの初期哲学期の著作『真理と学問』のⅢ章や、副題に「自然科学の方法による魂の観察成果」とある『自由の哲学』で「素朴さ」(省察・批判の欠如)の対極として掲げられた「批判的思慮深さ」との関連を見失わないためにも、ここでは「非難する」という訳語を選びました(「素朴さ」と「批判的思慮深さ」の対極については、詳しくはネットにあげている『真理と学問』私訳のp.23-24をご覧ください)。そもそも通常の意味でも「批判」は、「相手の過ち・欠点・限界をより深く考察し、転じて自分を省み、物事を正しい方向に変容させていく」前向きな方向性を持っています。これに対して「非難」は、「相手の過ちや欠点などを一方的に責めること」で、完全に反社会的な方向性です。ここは「他者或いは他者の欠点・過ちに対して自然科学的・客観的関心を持ち、より深い考察をする」ということが「前向きであるということ」で極めて重要なポイントです。そもそも、ここのハイフン内で述べられていること自体も、「人々の欠点」「人々のおかしてしまう過ち」として最大級のものです。これそのものがシュタイナーなりの「他者の欠点・過ちへの自然科学的・客観的関心からの思慮深い批判的考察」の実践なのです。

「というのも、なおも続く後アトランティス文化の残りの三つの時代、即ち第五文化期、第六文化期、第七文化期では、人々は次第に、特に他者の欠点(過ち)にますます真心を尽くして取り組まなければならなくなるからです。」

 ここは、Denn以下の文とその前文との脈絡がとりにくい文章です。これは推測でしかありませんが、ひょっとしたら、将来に向かって同時に進行していく霊的進化発展プロセスと物質的退廃化プロセスの関連で、時代を経るにつれて変容していく地球ないし人類の生活環境的に、他者の欠点・過ちの問題に取り組むということの焦眉の課題が、特にシュタイナー自身がここでとりあげた焦眉の課題が、緊急性を増していくというような、かなり緊迫感のある未来の状況を予言的に説明したのかもしれません。「人類」=「社会的共同生活」の目指されるべき理想ということでここでシュタイナーが言っていることは、もちろん、木星紀に向かう人類の進化発展の課題ですから、当たらずしも遠からずというところではないでしょうか。確実なことは、少なくとも前文から「そうすれば、いつか第六、第七文化期という、未来の時代になった時に他人の欠点をますます愛情を持って受けとめるようになるでしょう」とDannで繋いだかのような文にはなっていないということです。

「古代ギリシャの有名なアポロン神殿の上には『汝自身を識れ』という格言が掲げられていました。当時の人々はまだ、自己の魂を顧慮することによって、最も重要な意味での自己認識に至っていました。それは[こんにちにおいては]ますます不可能になりつつあります。現代人は自分自身に夢中になっていますから、最も重要な意味での自己認識に至ることは、まだほとんどありません。なぜなら、彼らは自分本位になるが故に、根本的に自己認識にいたることがほとんどなく、他者、特に他者の欠点・過ちと呼ばれるものにほとんど気を配らないからです。」

 ここは『汝自身を識れ』という格言の持っている意味が自明の如く前提として語られている箇所で、内容的に若干難解であることは事実ですが、理解できないことではありません。高橋訳はこの格言の意味から捉え損ねており、段落を変えた上で次のように完全に書き換えてしまっています。

「古代ギリシアにおいては、有名なアポロン神殿の上に、「汝自身を知れ」と記されていました。自己認識は当時、達成されるべきもっとも重要な課題でした。しかし自分の魂の中に入り込むようになってからは、この課題がますます不可能になっていきます。自分自身の中に入り込むことによって、人はこんにち、ほとんど自分のことが分からなくなっています。人々はもっぱら自分自身の中に入り込んでいるので、根本的に自分が分からなくなっています。他人に、特に他人の欠点にしか眼を向けようとしないので、そうなってしまったのです」(高橋訳p.113-114)。

 「古代ギリシャ人たちが自己の魂を顧慮すること」と「現代人が自分自身に没頭すること」はそもそも内容が全く異なっています。「顧慮する」「夢中になる」と訳した同じHineinbrütenで、どちらも同じく「考えをめぐらす」と訳してもいいのですが、同じ言葉で前者と後者の意味がまるで異なっているので、それが分かるように訳してみました。「汝自身を識れ」の格言は、「自己認識とは他者認識である」ということで、「他者(非我)の認識を通じて真の自己(自己の魂)を認識する」ということを指しています。またそれと同時に「自己配慮とは他者配慮である」という考え方も自明の前提として含まれています。つまり古代ギリシャ人たちは、互いに気を配り合い、彼らの真の自己を認識していたのです。だから「自己の魂を顧慮する」と訳しました。これが古代ギリシャ人たちが到達していた「最も重要な意味での自己認識」の在り方だったのだと。それに対して、現代人の場合は、単に自分自身のことに考えをめぐらす(夢中になっている)だけです。つまり自分本位な関心(Eigen-Interesse)しかないということです。ですからweil節以下のin sich selbst hineinbrütenはEigen-Interesseとの関連が分かるように、「自分本位になる」と訳してみました。そしてそれは他者、特に他者の欠点や過ちに気を配らない態度です。古代ギリシャ人の真の自己の認識の在り方とはまるで違いますから、当然、それに至るわけもないというわけです。なお、A. H. Parker氏の英訳はこの点は問題ありませんでした。

感想:いろいろと書いてみましたが、徹頭徹尾、自分本位の関心をどれだけ捨てられるか、という意味でも、パウロ書簡の「もはや私ではなく私の中のキリストが生きる」ということがシュタイナーの中核にあるのだなというところに落ち着く次第です。

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