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建徳的物語としての『灰羽連盟』-鳥についての建徳的談話②-

(本ノートは、本文は無料で読むことができます。下部に「投げ銭チケット」がありますので、お気に召した折にはご購入頂ければ幸いです。なお、ご購入頂いた方には、少々の追記をご覧いただけます。なお、本ノートは『建徳的物語としての『灰羽連盟』-鳥についての建徳的談話①』の続編となっていますので、未読の方は先にこちらをお読みいただければ幸いです。)

建徳的物語としての『灰羽連盟』-鳥についての建徳的談話②-

Ⅱ:人は二人の主に兼事ふること能はず、或は(丁:enten)これを憎み彼を愛し、或は(丁:eller)これに親しみ彼を輕しむべければなり-「これか-あれか(丁:Enten-Eller)」の迷いなき服従の教師としての鳥-

カナ:そんなふうに餌付けしてさ、町の外で生きていけなくなっちゃったらどうすんのさ?カラスにはカラスのルールがあるんだ。甘やかしちゃいかん。鳥はさ、この世界で唯一、壁を越えることを許されている、特別な生き物なんだ。もし私たちが鳥に餌をやって、何の苦労もなく暮らせる場所をつくっちゃったら、鳥は街に住み着いて、多分二度と飛ばない。それは幸せかもしれないけど、かわいそうだ。(『灰羽連盟』第四話「ゴミの日・時計塔・壁を越える鳥」)

 鳥は空の鳥、或いは空の下の鳥である。人間や灰羽は、地上低くで野外の鳥たちを見る。しかし、もし彼らが鳥たちを観察することから利益を正しく得るべきであるなら、彼らは鳥たちを空の下で見なければならない。彼らは鳥たちは空の下に住んでいるということを絶えず心に思い出さなければならないのである。もし誰かが一羽の鳥を絶えず地上で見ていることで、鳥が空の鳥であることを忘れるようなことがあるなら、その者は鳥についての理解を自分自身で妨げている。「空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に収めず、然るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ」(『マタイによる福音書』6章26節)。そうだ、天の父、それをなすのは彼なのだということを忘れてはならないのである。空の鳥は、暮らしの心配もなしに森や湖の上を軽やかに飛び、グリの街の壁を軽々と越えていく。もしもある者が、鳥を養っているのは自分たちだなどと考えるなら、それはその者の思いが、惨めな哀れさの中に深く沈み込んでしまったことの証なのだ。だから、ひたすら鳥に集中してみよう。惨めな分別を忘れて、鳥について学び直し給え。

 天の父が空の鳥たちを養い給う。空の鳥から学ぶべきことは、自分で自分を養っていると思っている者でも、その者を養っているのも空の鳥と同様に天の父であるということである。「汝らの天の父は、これを養ひ給ふ」と言われるところの空の鳥について、天の父はただの一羽も忘れてはいない。そのように、その優しい御手を開き、そして生けるもの全てを祝福で満たす彼は、唯の一人の者をも忘れてはいないのだ。ここでは、空の鳥たちの差異などは少しも暗示されてはいない。これは話師が述べた「巣立ちの日は善き灰羽のもとに平等に訪れる」と言った時のそれと同じことである。

 空の鳥は、空の鳥を支配している神の経綸に従っている。鳥は空の鳥、或いは空の下の鳥として、天の父によって養われているのだ。鳥は、天の父により、一日の苦労はその日だけで足るようにし、そのような仕方で世を過ごすという生活の在り方を運命づけられている。鳥はそのようにして天の父により養われ、また糧をあてがわれている。だから人間や灰羽の側から、自分たちが野外の空の鳥を養ってやろうなどと思ってはならないのだ。この点ではカナは正しい。カナは「野外の餌付けられていない鳥」か「餌付けられた鳥」の間にある差異を述べている。それは空の鳥を支配している神の経綸に従っているか、それともそうでないかの違いである。餌付けられていない鳥は、グリの街の壁を自由に越えることができる。餌付けられた鳥はもう二度と飛ばなくなるだろうと、カナは言う。カナの話から伺えるのは、空の鳥が人間や灰羽にによって餌付けられるというような生活の在り方は、空の鳥を支配している神の経綸からの逸脱-迷誤(丁:Forvildelse→For-Vildelse)であるということだ。神の経綸に服従し、壁を自由に越えることのできる生活の在り方からのこの逸脱-迷誤は、鳥を非自由の虜囚としてしまう、以上がカナの言い分である。

 だが、実のところ、野外の空の鳥は、カナが言うようには人間の餌付け如きで自由を奪われるほど甘くはない。鳥は絶対的に神の経綸に従うし、カナのことなどは手玉に取ってしまうくらいである。「汝らの父の許なくば、その一羽も地に落つることなからん」(『マタイによる福音書』10章29節)。鳥は絶対的に、神に服従している。もしも鳥が地上に落ちることがあるなら、それはそれが神の意志である時である。鳥は神に対する絶対的な服従の達人である。鳥はその教師に相応しいことはあっても、逸脱-迷誤することはない。絶対的な服従の達人であり、その教師としての鳥は、絶対的な服従という点においてかくも素朴、或いはかくも崇高である。鳥が信ずるところは、生起する全てのものは絶対的に神の経綸であり、また、絶対的に服従して神の経綸をなすか、或いは絶対的に服従して神の経綸を堪え忍ぶより以外の何事も世において全くなすことはないということである。そしてだからこそ鳥は自由なのだ。天高く飛翔し、グリの街の壁の向こう側とこちら側とを自由に行き来できる空の鳥は、いわば、自由そのものの象徴であり、未知の世界であるグリの街の外を知ることができる特別な生き物である。おお、日々の暮らしに対する思い煩いに押し潰されることなく、天に向かって自由に飛翔し、まるで神の國を、神の義を、求めているかのような空の鳥!空の鳥は、大空で軽やかに翔るとしても、自分の軽やかな飛翔を思い煩う者の重い歩みと比較しはしない。それ故にカナは、この点では空の鳥についての見解を誤っており、間違った報知を広めてしまっている。間違った報知ということであればもう一つ、カナはラッカのように「灰羽はなぜ働くのか?」と問う次元には立っておらず、またその答えも持ち合わせていないにもかかわらず、ラッカに対しても、正確なことは答えられないという点にも出ている。また彼女は自分の使命=規定(丁:Bestemmelse 独:Bestimmung)だとでも言わんばかりに鳥を相手に箒を持って振り回す。しかしその使命=規定は彼女の本質ではない。彼女の箒の舞は宙を舞うだけだ。鳥の方で彼女のところへやってこなければ、箒を持って鳥を追っても実際役には立たない。そのように、実際には彼女の方がつり込まれ、罠にかかり、迷わされてしまっているのだ。「懲りないねぇ…」「全くカラスのやつぅ!」「いや、あんたが」「にゃにおーう!?」「おっと、藪蛇…」(『灰羽連盟』第四話「ゴミの日・時計塔・壁を越える鳥」)しまいには鳥に狙いすまされたかのように糞まで落とされてしまう始末である…。

* * *

 しかし、だからといって、カナが言っていることからは何も捉えることができないというわけではない。次のように考えてみていただきたい。カナが言ったこと、つまり、「野外の餌付けられていない鳥」か「餌付けられた鳥」の間にある差異に関わる話は、実は野外の空の鳥に当てはまることというよりは、むしろ、日々の暮らしに対する思い煩いに関して人間や灰羽の間で起こりうることだと彼女が不安に思っていることからふと口を突いて出たことなのだと。カナは、暮らしに対する思い煩いは、それを持つのが鳥であろうと、灰羽であろうと、本質的には同じであって、それは変わらない、と考えているところがある。その考えは、野外の空の鳥が以上のように絶対的な服従の達人であり、またその教師に相応しいということからして、鳥に関しては間違っているのであるが、灰羽や人間が逸脱-迷誤し且つ遣り損なってしまうかもしれないことが鳥を矢面に出しながら彼女の口からふと出たことだと捉えることはできる。彼女が言ったことは、人間や灰羽における「これか-あれか(丁:Enten-Eller)」、即ち「神か(丁:enten Gud)-或いは(丁:eller)…」の問題が、野外の空の鳥を矢面にしたかたちでふと出たものなのだ。そしてこの問題は、ラッカが罪憑きと成ってしまう物語の「予型」ともなっている。鳥に鳥を支配する神の経綸があるように、人間や灰羽にも彼らを支配する神の経綸がある。我々は先のノートで、沈黙と畏れ戦きの教師としての空の鳥の側面を明るみにしておいた。この鳥の下での沈黙と畏れ戦きが畏神の始まりであるが、この沈黙と畏れ戦きの中において、「神か-或いは…」の「これか-あれか」がある。人間や灰羽がその他何を選ぼうとも、もしその者が神を選ばないなら、その者はこの「これか-あれか」を取り逃した、或いは彼の「これか-あれか」によって破滅にある。第二の項には、神に対する反対のためを除いて、全く何の強調もされない。これによって強調は神に対して無限になされることになり、神は自らが選択の対象であることによって、選択の決断を緊張せしめて選択が真実に「これか-あれか」にならしめるものは元々神であるということになる。この「これか-あれか」は「神を愛するか-神を憎むか」である。現存在の実存に迫る、野外の空の鳥の下での沈黙、神の前の荘厳な沈黙は、この「これか-あれか」の二項の対立を、同じ一つの瞬時に相互に触れしめる、否むしろ、「神を愛するか-神を憎むか」を同じ瞬時に存立せしめるのだ。これは「神に親しむ(結びつく)か-神を軽しむる(軽蔑する)か」である。人間や灰羽の創造者であり、そして保持者であり、人間や灰羽がその内に生き、動き、そして在るところの永遠なる神。その恩寵によって君がすべてのことを持つところの彼。だから、「神に親しむか-神を軽しめるか」というこの「これか-あれか」は、決して取るに足らぬことではない。一方では神は結局のところ神である、そして他方では神はそれをどちらでもよいようなこととの関係にもたらすのではない。神はこの「これか-あれか」を自分自身との関係にもたらすのであり、そして人間や灰羽に突きつけるのだ、「私か――お前は私に親しむか、しかもあらゆることにおいて絶対的に。或いは、お前は――私を軽しめるのか」と。野外の鳥の下での沈黙の中にこの「これか-あれか」がある。それは何を意味するか。何を神は要求するのか。神の人間や灰羽に対する関係は、創造主の被造物に対する関係であり、人間や灰羽の神に対する関係は、被造物の創造主に対する関係である。神がこの「これか-あれか」によって要求するのは服従である。全く無条件の、絶対的な服従である。もし人間や灰羽が、絶対的に服従しないなら、その者は神を愛していない。その者は神を憎み、神に親しんでおらず、神を軽しめているということになるのだ。

 野外の鳥のもとに沈黙があると前ノートにおいて述べておいた。我々がそれから学ぼうと努めた、沈黙するように成るということは、真実に服従しうるということに対する最初の条件である。君の周囲の自然に注意を向けてみたまえ。「自然においては全てが絶対的な服従である。風のそよぎ、森のこだま、小川のせせらぎ、夏の唸り、群葉の囁き、草叢のざわめき、各々の音(丁:Lyd)、君の聞くそれぞれの響(丁:Lyden)、それは全て応諾(丁:Adlyden)であり、絶対的な服従(丁:Lydighed)である。それ故に君はその中に神を聞くことができるのであり、それは恰も君が、服従の内に成す天体の運動である音楽の中に、神を聞くことができるのと同様である。そして、突進する気流の激烈さや、雪の軽いしなやかさや、海の滴る流動性とその凝聚や、光線の迅速さや、落雷のもっと大きな迅速さ、それは全て服従である。そして時刻通りの陽の出と時刻通りの陽の入りや、合図によるような風の急変さや、一定の時間での昇りそして沈む水の変転や、正確な交代をなす四季の合意、これら全て、全て、それは総じて服従である」(セーレン・キェルケゴール『野の百合と空の鳥』)。人間や灰羽の周囲の全てが野外におけるように荘厳な沈黙である時、そして君の内に沈黙がある時、その時彼らは次の事を成すように突きつけられているのである。即ち、「ここにイエス言ひ給ふ、「サタンよ、退け。『主なる汝の神を拝し、ただ之にのみ事へ奉るべし』(『申命記』6章13節)と録されたるなり」(『マタイによる福音書』4章10節)。サタンがその鋭い眼でその獲物として覗うもの、またその奸智やあらゆる試練の罠が捕捉し奇襲する獲物として狙うもの、それは曖昧さである。曖昧さがあるところに試練がある。そしてそこではあまりにも容易に一層強い者である。しかし曖昧さのあるところにはまた何らかの仕方で不服従が下の底に存する。曖昧さのほんのわずかな閃きがあってすら、サタンは強く、そしてその試練は人間や灰羽を捕捉し奇襲する。彼は鋭い眼をしている。彼の罠は試練であり、そしてその獲物は人間の魂と呼ばれるところの悪しきものだ。試練は本来サタンから来るのではないが、どんな曖昧さも、サタンの前に身を隠すことは出来ないのである。

 レキによると、冬になると壁の力が弱まるから、「悪いもの」の影響を受けやすい。この「悪いもの」が、『灰羽連盟』の作中では擬人化されてはいないがサタンに相当するものである。このサタンの罠の捕捉と奇襲を斥けることができず、その餌食になってしまった者がいる。ラッカである。彼女は元々灰羽としての生を受けて以来、どこか曖昧さの中にあった。自分がどうしてここにいるのか、自分はなぜ灰羽となったのか、灰羽とは何なのか等々、本来の自己のことなど何もわからないまま、グリの街に投げ込まれ、放り出されたも同然であった。彼女はこうこぼしている。「灰羽って、何なんだろう。壁もこの街も、灰羽のためにあるんだってみんな言う。でも、灰羽は突然生まれて、突然、消えてしまう。私、自分がどうして灰羽になったのかわからない。なにも思い出せないままここにきて、何もできないまま、いつか消えてしまうんだとしたら、私に、何の意味があるの?」(『灰羽連盟』第八話「鳥」)。彼女には罪憑きになる以前から、どこかに罪意識が潜在していた。彼女は「いいのかな、こんなに幸せで」と述懐している。自分には何か得体の知れない罪があるのではないかと不安を感じているようなのである。この彼女が抱いていた曖昧さが、サタンの罠の捕捉と奇襲の獲物となってしまったのである。彼女はクウの部屋を掃除している時、涙ながらにこのようにも言っている。「ごめん、私、みんなみたいにクウを祝ってあげられない…。だって私、もっとクウと一緒にいたかったもの…。一緒に買い物したり、ご飯を食べたり、たくさん話をしたかった…。クウに教えてもらいたいこと、まだいっぱいあったのに…」(『灰羽連盟』第7話「傷跡・病・冬の到来」)。これは彼女の利己的な欲念である。灰羽たちの巣立ちに関して、その「時または期は父おのれの権威の内に起き給ふ」(『使徒行伝』1章7節)なれば、それに対するどんな些細な異論でも、どんな現存の反対-論拠でも、誘惑であるという意味で、自分の現存を全部作り変えてしまうだけの悪魔的な理念性を持っている。サタンはそこをつくのだ。「神か-或いは…」に、ラッカは躓いてしまうのである。その描写は、冒頭においてラッカが、クウの遺した自分の名前が書かれているカエルの人形を爪弾きにして転がしてしまうという何気ない動作からすでに始まっている。

 「神か-或いは…」の「これか-あれか」!…サタンがその「これか-あれか」の第二の項へとラッカを引きずり込む。彼女が自分一人で心の平静を見出すのは難しい。彼女の気持ちは休まらない。サタンの捕捉と奇襲によって善に対する不安=悪魔的なものが量的に増大させられることからの憂愁が、そして絶望-懐疑(丁:Fortvivlelse→For-Tvivlelse)が、彼女の頭をもたげるからだ。これらは逸脱-迷誤した形での自己、つまり「神と人(永遠なものと時間的なもの/可能性と必然性/無限性と有限性)との関係において、その関係がそれ自身に対して関係するというその動き」が誤っている状態、即ち「病」に罹っている状態である。そのきっかけはクウが巣立ったということだけではなかった。元々から自分がひとりぼっちだと思いこんで、深刻に悲しむという不幸が、彼女にはあった。この不幸のきっかけは彼女自身でもあった。人間や灰羽においては、その精神が直接性(丁:Umiddelbarhed=永遠の生命と尽きない喜びを得るという絶対的なテロスについての顧慮なしに、時間的な物事と直接に結びついている状態)の散乱から自分自身において明らかとなるように収縮して自らを永遠の妥当性において意識するようになるという成熟の「瞬間」(丁:Øieblik)が生じる。前ノートで沈黙と畏れ戦きに関して瞬間と関係づけて述べておいたことを思い出していただきたい。瞬間は「眼の一瞥」(丁:Øiets Blik)の如く速やかなものであり、しかも永遠なものの内容に対して通約できるものである。瞬間とは、時間と永遠とが互いに触れ合うかの両義的なものである。直接無媒介的な精神としては、人間や灰羽は地上的な生活の全体と連関を持つのであるが、瞬間によって今や精神がこの分散から凝集に転回(丁:Omvendelse)しようとし、自らの中で明瞭になろうとする。人格がその永遠の妥当性において自己自身を意識するようになるのだ。しかしラッカは、クウとの離別において、その瞬間に遭遇したにもかかわらず、その運動が停止し押し戻され、更にサタン(悪いもの)に捕捉され奇襲されて、善に対する不安=悪魔的なものの量的増大から憂愁に閉ざされた。神の前で無として、しかも無限的にして無制約的に、義務を負う者として、本来の自己に立ち返らねばならないことに気づきながら、そうであろうと欲さないのである。これをまた更に別の相から見れば「絶望-懐疑して、自己自身であろうと欲しない場合(弱さの絶望)」の「永遠なものについての(丁:om)絶望-懐疑、或いは、自己自身に関する(丁:over)絶望-懐疑」であるということになる。omが絶望-懐疑の内面的な側面を表しているのに対して、overは絶望-懐疑の外面的な側面を表している。クウとの離別以前と離別以後、或いは罪憑きになる以前と以後とでラッカに生じた内面的な生成変化は、自己が何について(丁:om)絶望-懐疑しているのかについて自覚のない状態から自覚のある状態への転回(丁:Omvendelse)であった。それを外面的・表層的な生成変化としてみると、それまで直接無媒介的な精神として、地上的な生活の散乱した全体に関する絶望-懐疑から、自己自身に関する絶望-懐疑へと向きが変わっているということになる。罪憑きになったラッカは、内面的には永遠なものを意識していながら、それが自己には失われているという意識がある。たとえば次の会話にそれを見て取ることができる。「灰羽はいつも元気にニコニコしててくんなきゃ!」「どうして…?」「どうしてって、なんというかな、ガキの頃からお袋に、灰羽は天の祝福を受けた者って教わってきたからさ。縁起もの、ったら失礼か」「私、祝福なんて…」(『灰羽連盟』第八話「鳥」)。しまいには「ダメなんです、私、出来損ないの灰羽だから」とまで言い出してしまう始末である。そして外面においてはそれは受苦ではなくて態度或いは行為となって現れる。服屋の主人が「何があったかは知らない」と述べているように、ただ単に傍から見ても彼女の絶望-懐疑の態度・行為がなぜそうなのかをうかがい知ることはできない。しかしラッカが善に対する不安=悪魔的なものの量的増大から憂愁に閉ざされ、また以上のような絶望-懐疑者となっていることそのものの現象の特徴をうかがい知ることはできる。そしてまたその特徴こそが、まさにこの憂愁ないし絶望-懐疑をして悪魔的なものと呼ばれる理由でもある。悪魔的なものはまず、その状態である者が他者に触れた時に明瞭になる。ラッカは服屋の主人との会話の後、店に訪れた無邪気で灰羽にミーハーな女性客に対して、突発的に拒絶を示す。その原因はその女性客にあるというよりは、自分自身が罪憑きであることの意識からのものであることは、突発的に拒絶感を現す時に、罪憑きを象徴する黒ずんだ羽のことが彼女の脳裏に浮かぶことからも明らかである。女性客も服屋の主人と同様に灰羽を縁起ものと捉えていたところがあり、それがまざまざとつきつけられるので、自分にはそんなものはないと思い込んでいる彼女にはそれが堪りかねるのである。また、転んでしまったラッカを見て助け起こしてくれた紳士が「これ、落としましたよ」と親切に羽袋を手渡しした時も、彼女は羽袋から落ちた黒ずんだ羽を見て、まるで視界が眩暈を起こしたかのように歪み、紳士の親切な、傍から見れば何でもない言葉も歪んだ声に聞こえ、羽袋をふんだくるかのようにとって駆け出してしまう。

 ここで不安の量的増大ないし憂愁は、眩暈の如きものとなって現れている。憂愁(丁:Tungsind)は字義どおりに見れば「重い(丁:Tung)気質・性向(丁:Sind)」であるが、その重さ或いは重圧は、頭上に重しがあるとか、上から何かが落ちてきそうだとかいうような、決して外的な何かではない。むしろ内的なものの逆反映(丁:en omvendt Reflexion)であると言わねばならない。この種の不安の量的増大に伴う眩暈は、眼の一瞥の如き瞬間によって永遠なものについて(丁:om)自覚したもの、つまり瞬間によって精神=自己が定立され、永遠なものと時間的なものの関係が定立されて、その関係において、その関係がそれ自身に対して関係するというその動きが定立された者に起こるものである。精神=自己が、心的規定としての有限性の領域にある心-身を掻き乱して不安を生じさせ、眩暈を起こさせるのである。

 服屋の主人も、女性客も、紳士も、悪意は全くない。むしろ好意的であるくらいであるが、悪魔的なものは他者とのこのような交流によって明瞭になる。悪魔的なものは一つの状態なのであるが、この状態からは、以上のように絶えず個々の罪ある行為が出現するというのが特徴的である。自分が罪憑きである、罪人なのである、と言った思い廻しから、自分がそうであることを他人に知られることがその不安の源泉となっている。しかしそれが結局、そういう思い廻しに囚われ続けるあまり、その思い廻しが次々と罪ある行為を産み出していってしまうのである。罪に対する不安の量的増大が次々と罪を産み出すという恐るべきことが起こっているのである。その不安の量的増大は、責めある者となることからのものではない。責めある者とみなされることからのものなのである。そしてその不安の量的増大からの思い廻しがむしろ彼女を責めある者としてしまうのである。

 悪魔的なものは自らを閉じようと欲する非自由である。そこにあるのは、現実的な、しかも十分な配慮を以て閉じられた戸なのだ。そして自己は、いわばその背後に座り、自己自身に気を配り、四六時中、自己自身であろうと欲しないことに没頭している。この悪魔的なものの「内閉性」は、直接性を軽蔑して、あらゆる人を、自己に関係があることから、人知れず遠ざける。この憂愁ないし絶望-懐疑の悪魔的なものの状態にあるラッカも、外面的には全く「一人の現実的な灰羽」であるから、人々の間にある限りは、人々と関わり合わなければならない。だから悪魔的なものに憑かれた彼女は、郊外に出る。そのように、悪魔的なものの状態にある者は、人々の間にあることを、喧騒を避け、孤独を必要とするのである。そして、憂愁に閉ざされ、絶望-懐疑者となり、悪魔的なものの内閉性の状態において最も危険なことがある。それは自殺の危険である。郊外に出たラッカは一人泣きながら次のようにこぼす。「私の居場所なんて、どこにもない…。私なんて、いなくなっちゃえばいいんだ…!」(『灰羽連盟』第八話)。ここにも憂愁に閉ざされ、「永遠なものについての、或いは自己自身に関する絶望」の悪魔的なものの状態にある者の心理の微妙な動きが実に見事に描かれている。弱い自己に関して絶望している自己は、永遠なものを垣間見てはいても、実現してはいない。神と人の関係において、その関係がそれ自身に対して関係してはいても、それによって神に透明に関係してはいない状態のままなのである。自殺しようとすることは、この弱い自己に決着をつけようとする、自己に絡みついた弱さなのである。

 嗚呼、無惨なるかなラッカよ!彼女のその思い煩いが、サタンの眼に睨まれ、奇襲されて、今どんなに自分で自分を悲惨な状態に追いやっていることか!彼女の様子は福音書に次の如く記された悪鬼に憑かれた者の如きだ。「この人、墓を住處とす、鏈にてすら今は誰も繋ぎ得ず。彼はしばしば足械と鏈とにて繋がれたれど、鏈をちぎり、足械をくだきたり、誰も之を制する力なかりしなり。夜も晝も、絶えず墓あるひは山にて叫び、己が身を石にて傷つけゐたり」(『マルコによる福音書』5章3節)。また彼女のありさまは、空の鳥との比較において、キリストが人の子について次の如く言った通りの状態である。「イエス言ひたまふ、『狐は穴あり、空の鳥は塒あり、されど人の子は枕する所なし』」(『マタイによる福音書』8章20節)。彼女は悪いものに憑かれ、他者との交流を突発的に断ち切り、そして自己自身に没頭していても、それはその実自己自身であろうと欲しないことに没頭している弱さの絶望を見せている。彼女の思い廻しは、他者との交流或いは連続性を、そしてさらには自分自身を、ABRACADABRAと、つまり「この言葉の如く消えてなくなれ」と、自ら呪うにいたってしまっている!その憂愁、そして絶望-懐疑は、それだけで罪であり、本来それだけで他の全てに匹敵する罪である。なぜならそれは、自由を、善を、救いを、心から欲しない罪であり、神の経綸から逸脱-迷誤して非自由の虜囚となる、あらゆる罪の母だからである。

 しかし、ここで注意しておかなければならない。彼女が以上のようだからと言って、我々が彼女を断罪するようなことは決してしてはならない。以上の記述は、ラッカを断罪するために書かれたものでは断じてない。彼女がどのような悲惨な状態にあるかを明るみに出そうとしたものでしかない。もしそのようなことをしようものなら、その者は、ヨブに対してヨブが人間的に言って罪ある者として苦しんだのだと言ってやろうと思いつき、かつそのようにヨブに告げたあの友人たちと同じ過ちを冒すことになる。それはラッカに対して不遜なことである。なぜなら、ラッカが以上のような病に苦しんだのは、世にも稀なその精神の豊かさの故なのだから。しかも、神は、この病に罹っていることを自覚している者だけしか、癒すことができないのだ。福音書は次のように説いている。「汝等いかに思ふか、百匹の羊を有てる人あらんに、若しその一匹まよはば、九十九匹を山に遺しおき、往きて迷へるものを尋ねぬか。かくのごとく此の小き者の一人の亡ぶるは、天にいます汝らの父の御意にあらず」(『マタイによる福音書』)。心身共に、そして精神としても、悪魔的なもののために非自由の虜囚となってしまったラッカだが、神は彼女を見捨ててはいない。その証拠に見よ、人間や灰羽のように「これか-あれか」という迷い=疑いがなく、逸脱=絶望もない絶対的な服従の教師たる野外の空の鳥が、彼女を見守っているではないか。神は自らを動かし、そして常に、自ら不動にして全てのものを動かす。彼が自分自身を動かすとき、彼を動かすものは愛を措いて他にはないのだ!その神が、服従の教師にして救助者としての鳥を、ラッカに差し向けるのだ。再び「これか-あれか」が突き付けられるのである。だからラッカの罪は、次のように考えられるべきである。即ち「禍転じて福となす」=「必然性から建徳する」、その機会が与えられているのだと。

 実のところ、この機会が与えられている以上、ラッカは「禍転じて福となす」=「必然性から建徳する」ことに努めなければならないのだが、それに加えて彼女は、一つの危険に直面しているともいえる。それは神の忍耐を台無しにしてしまいかねないという危険である。というのは、神は「忍耐の神」(『ロマ書』15章5節)だからである。その危険がいかほどのものであるかは、試みに、次のように考えてみることで、増幅されるであろう。あなた自身の生存を真に真剣に観察してみよ。或いは、全てが絶対的な服従である自然からは非常に異なっている人間たちの生存、その人間世界を観察してみよ。そのときあなたは、神が自らを忍耐の神と呼ぶのがどのような真理を以てであるかを、戦慄なしに認めるなどということはありえないのではあるまいか?即ち、「これか-あれか」と言う神、——しかもこの「これか-あれか」は、「私を愛するか、或いは-私を憎むか」「私に親しむか、或いは-私を軽しめるか」という意味に理解されなければならない——彼があなたと私とそして我々全てに耐え通す忍耐を持っているのだということに!生存している無数の人間たちについて考えてみたまえ!そして次に、この無数の人間たちに対する教師でなければならない神、それは何という忍耐であろうか!しかも、神は忍耐の神でなければならないことを、数千年のまた数千年の日々の経験から知っている。時間性が存立しそして時間性の中に人類が存立する限り、彼は忍耐の神でなければならないということを、彼は永遠この方知っているのだ!この神の忍耐に、人間や灰羽の不服従が対応する。絶対的に神に親しまないということ、神を軽しめるということ、それは直ちに以上のような戦慄すべき神の忍耐を軽々しく扱うということにほかならぬのだ。ラッカが突き付けられている「これか-あれか」は、それだけの恐るべき責任を問われているものなのだと理解されたい。それだから人間や灰羽は、服従の教師たる鳥から学ばねばならないのだ、即ち、何人も「二人の主に兼事ふること能はず」ということを。何人も「或は(丁:enten)これを憎み彼を愛し、或は(丁:eller)これに親しみ彼を輕しむか」なのだということを。罪は不服従であり、不服従は罪なのだということを。そして、サタンを退け、『主なる汝の神を拝し、ただ之にのみ事へ奉る』(『申命記』6章13節)ことができるように!「この故に汝らは斯く祈れ。「天に在します我らの父よ、願はくは御名の崇められん事を。御國の來らんことを。御意の天のごとく地にも行はれん事を。我らの日用の糧を今日もあたへ給へ。我らに負債ある者を我らの免したる如く、我らの負債をも免し給へ。我らを嘗試に遇はせず、惡より救ひ出したまへ」」(『マタイによる福音書』6章9-13節)。

* * *

 さあ、私たちもまたラッカと共に、野外の鳥に導かれるままに行こう。そこには、我々を待っている鳥がいる、その鳥は大事なことを伝えようと待っている。この次はその鳥のことをよく考えよう。そして自分自身をその中に投げ棄てよう。自分をその中に失い給え。その光景はきっとあなたを動かすだろう。

* * *

(以下は今のところ謝辞と若干の追記以外ありません。内容それ自体の続きは別稿に記したいと思います。もしかしたらご要望があれば、注釈をつけるかもしれません)

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