キリスト意識のアスペクト的表現-『自由の哲学』9章より-
ある言葉をこの意味で聞く。こんなことがあるなんて、何と奇妙なことか!そのように区切られ、そのように強調され、そのように聴かれた文は、これらの文章や絵画や行動へと移行する起点となる。((これらの言葉から、よく知られた多くの小道があらゆる方向へと延びている。))
シュタイナーの『自由の哲学』の九章に次のような一文があります。
Nur wenn ich meiner Liebe zu dem Objekte folge, dann bin ich es selbst, der handelt.
この文章、dann以下のesを解析すると極めて重層的な意味を持っています。ひとまず、便宜的に次のように日本語訳しておきます。
私が対象への愛に導かれる時にのみ、私は〈それ〉そのものとなって行為しているのである。
〈それ〉と訳してあるところがesです。あくまで便宜上の訳だと思ってください。このesが何を意味しているかを解析すると、六重もの次元を持っていると理解できます。
1. ”es”は後続する関係節を予告しています。これは”es...der”という強調構文の一部として機能しています。通常の予示的な”es”と同様、文の形式的な構造を支える役割を果たしています。
2. ”es”は単なる代名詞ではなく、”selbst”と結びつくことで特別な意味単位を形成しています。再帰的強調です。この結合によって通常の代名詞的用法を超えた存在論的な支持機能を持つようになります。(「存在論的」ということでは、ここでは私という存在の在り方、或いは次元の変容を指し示す語くらいな意味だと思ってください。人間存在の実質的な変容に関わる事柄だと思ってください)
3. 表面的には形式的な代名詞でありながら、”es”は「本来の自己」という本質的な何かを指し示しています。単なる文法的な指示を超えて、存在論的な次元への指示として機能しているということです。『自由の哲学』の同じ九章ではwirkliche Ich(現実の自我・本当の自我)と言われている箇所に相当するものと考えることができるということです。
4. このesはキリスト論的次元を有しています。つまり、「内なるキリスト」です。
5. ”ich”(個人の自我)と”der handelt”(行為する主体)を媒介する役割を果たしています。この媒介によって、個人の自我が真の行為主体へと高められるプロセスが文法的に表現されているととれます。dann節以下は実質はich bin es selbst, der handeltということですが、それは「ich=es selbst」であり、関係文でとると「「ich=es selbst」が行為する」ということになります。
ここまでで、"es"〈それ〉の明示的な意味は「自己」ということになります。つまり、①通常の意識における私が、②対象への愛に導かれて変容した私=真に行為する主体としての《私》となる(「私の内なるキリストが生きる」)、ということです。
しかし実はこの文は、これに加えてもう一つ暗示的な意味を持たすことに成功しています。
6.この”es”が上の明示的な意味とは別に、Objektを指しているととることもできるということです。この場合「ich bin es=objekt」で「私は対象そのものとなる」ということになります。「私ではなく、私の内なるキリストが生きる」の「私ではなく」が、成立していることになるのです。ここまできて五重目までに加えて「自己放棄を通じた真の自己の実現」がアスペクト的に表現されていると言えます。
つまり、この一文は次のような明示的な意味と暗示的な意味をアスペクト的に持ち合わせているということができます。
明示的な意味:私が対象への愛に導かれる時にのみ、私は自己そのものとなって行為しているのである。
暗示的な意味:私が対象への愛に導かれる時にのみ、私は対象そのものとなって行為しているのである。
この明示的な意味と暗示的な意味のアスペクト的表現によって、ドイツ語では「もはや私ではなく、私の中のキリストが生きる」を同時に表現しているといえます。なんということでしょうか…!日本語では〈それ〉としたとしても、却って明示的な意味である「自己」の方が取れず、暗示的な意味の「対象」の方としか取れなくなってしまいます…。ドイツ語でしかこんな表現はできないのではないでしょうか。
なお、folgeを導かれるとしたのは、この状態が純粋思考によって導かれている状態を表せると思ったからそう訳してみました。
追伸:
私は現在、ドイツのアントロポゾフィー医師であられるアンドレアス・シュミットさんとメールでのやりとりを重ねています。五重までの解析を自分で行いましたが、六重目の次元=暗示的な意味の「アスペクト的転換」は、彼の指摘で気づかされた側面です。また彼によって、私は、この小文字のichに、読者に呼びかける側面があることを強く喚起させられました。読者にこのichになって読んでほしいという側面があるということです。アンドレアスさんとの思い出の記念として、ここに書き残しておきたいと思います。