つくりものの世界
つくる、っていい意味だけではないのですよね。
“無いものをあるようにする”だとか、いつわってその風をする”とか。
語る、もそうです。語るは騙(かた)る、って本、小説でしたけどね、で見た時ちょっとショックでした。
私は小さい頃から本が大好きで、本があったから生きてこれたんだと思うくらいです。
でも人からは、本なんか読んでないで現実を見ろ、ちゃんと生きろとか言われますよね、よく。
今になって思います。ほんとは本の方やん。
ほんとうは、そっちにあった。いや、かくれてた。本だけでなく、ほかのひっそりしたとことか、人からバカにされるようなとことか。ずっと長い長い間、ほんとうは、細く小さく生きのびてきた。
なんだかいろんなものにダマされてきたなぁと、そんなことをよく思ったのももう数年前までになります。
今はもうあまり思わないですね。最初から、ウソだったんだもん。
私の好きな作家さんが演劇も好きだった方だったので、時々お話の中に“書き割り”という言葉が出てきました。大道具、背景。いくつかに割れるとこから、そういうそうです。
世界って、そんなものだったんだ。
と、思うようになってます。
だから、今はTVも見ないけど、10年前くらいまでは、なんでこんなにペラペラと安っぽくウソっぽくズルいんだろうと、思ってました。
TVだけでなく、人にも、物にも感じました。
でも、この世界ではそれが標準だったのです。こないだから時々書いてる身近なおかしなことも、そうだ、それはこの世界ではふつうのことなんだと思うと、怒りよりも、かなしさとこわさを感じてます。
5年前、10年前と、とても世界がこわいと感じたことがありました。
今もです。でも、前よりは心が静かです。
長い長い時間の中の、私の、それよりはずっと短いけれど長い間、わたしも守ってきたのです。ほんとうを。ボロボロでしたがここまで守ってきたのです。
私が生きてきたほんとうの世界で、私も今は創っています。
それはどのようなかたちになろうと、どこまでできるかできないかわからなくても、たしかにそれはあり、誰にもこわされることはなく、私の望むかぎり私はその中にそれとともにそれとしてあるのだと、今は感じています。
そのことに世界の中での意味もある。たぶん今まで思ってたよりずっと大きく。私だけではなく、みんなそれぞれに、それがあるのだと思います。