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【音楽】弦楽四重奏の歴史について(3)


こんばんは♪

レコールドムジークの講師です(*^^)☕🍪


以前より連載している、文庫クセジュの『弦楽四重奏』についてです。

前回までの記事をお読みになりたい方は以下のリンクからどうぞ♡(*^^*)


『弦楽四重奏』を読み進めていく中で、弦楽四重奏の起源や、時代毎の弦楽四重奏の在り方、音楽の傾向など、著者の問いとともに考察してまいりました。
//作曲家毎の功績や説明などについては、別記事にしたいと思います。

今回は、第三章「現代」です。著者のシルヴェット・ミリヨさんは、現代を2つの期間に分けていて、第一期を1875年-1919年、第二期を1920年-1960年としています。

尚、本記事では、第一期について取り上げてみました。

ちなみに、第三章も、例にもれず「序」と「本文」で構成されていましたが、今回は「序」と「本文」の内容全体を含めて考察してまいります。

※「現代」の期間の分割について補足をしておきます。「序」の中で、現代を1875年-1895年、1900年-1919年(十二音技法の出始めくらいまで)、1920年-1960年の3つの期間に分けることも出来るという記述が見られますが、本文の構成としては、前述のように、1875年-1919年を第一期、1920年-1960年を第二期として、見出しが分けられていました。そのため、本ブログでは、見出しの項目に従って、2つの期間に分けられた方で考察してまいります。


【概要】

第一期は、フランスについて書かれていました。

フランスは、1764年 J.P.ラモー 没後から一世紀の間、音楽史的には沈黙が続いたとされています。ロマン主義の外にいたということも起因しているかもしれません(そもそもロマン主義自体、本質的にゲルマン系諸国で興った現象であり、ロマン主義的音楽がラテン系諸国へ流入し発展したという資料は今のところ見られないです)。

ですが、ロマン主義の終焉とともに、フランス国内では、いわばルネサンスの動きが見られるようになります。C.サン=サーンスを筆頭に、J.P.ラモーの作品をまとめるなど、古典回帰的な活動をしていたというお話は割と有名かと思います。

(ブログ主の補足:ちなみに、ドイツでも、レーガーを筆頭に古典回帰的な活動をしていますが、時期的にはフランスよりちょい遅れて活動したと思われます。)


フランスで発生した音楽史的な出来事は、以下の通りです。


■音楽教育が中等、高等教育に導入されるようになった
 -パリ音楽院にて、音楽史の講義を開講
 -続いてコレージュ・ド・フランスと、ソルボンヌにも音楽史講座を創設

(ブログ主の補足:パリ音楽院とは、現在のパリ国立高等音楽・舞踊学校のこと。当時の音楽院の実態を考えると、名称としてはパリ国立音楽・演劇学校と記述した方が正しいかも?)


■以下2つの優秀な音楽学校が設立された
 -1853年 エコール・ニーデルメイエール設立


 -1896年 スコラ・カントルム設立


(ブログ主補足:ニーデルメイエールの設立年を見ると、著者が分類する「現代」の第一期よりも前の時代ではないかと突っ込みたくなりますが、現代の第一期は、ニーデルメイエールの優秀な卒業生であるG.フォーレが活躍する時代でもありますので、ニーデルメイエールについても触れておいたという感じかな、と思われます。ニーデルメイエールは宗教音楽家を育てる学校で、教会勢力が強かった時代の音楽を必然的に学ぶことになり、ブログでも後述しますが、昔の音楽から学ぶことを大切にしつつ前進するという温故知新的な精神を持ち合わせているため、ニーデルメイエールは大切なキーワードでもあります。)


■新聞紙上に音楽批評が掲載されるようになり、聴衆の要求も厳しくなっていく


■新たな音楽団体が相次いで創設される

 -1871年 国立音楽協会
 -1909年 独立音楽協会

■演奏会プログラムの内容として、以下の傾向が見られる

 -プログラムの一部を室内楽曲にする
 -フランス人作曲家の作品の初演を割り当てる


■1870-1918年まで、室内楽団の数が増え続ける

 -1872年 現代室内楽協会創設
 -1873年 新室内楽協会設立

結成された弦楽四重奏団としては、バラン弦楽四重奏団、カペー弦楽四重奏団、シャイエ弦楽四重奏団など。


確かにフランスでは特筆すべき出来事がたくさん見られます。室内楽が演奏されるようになり、それに伴い弦楽四重奏団が多く結成されるようになった、とのことです。

上記を踏まえ、著者のミリヨさんは、以下2つの問いと、それらに対する答えを書いていました。

①何故フランスで急激な覚醒が生じたのか

→1870年のフランスの敗北による、第二帝政の終息や、パリ・コミューンの騒擾を起因として、イタリアやドイツなど国外の作品を排斥し、フランスの作品や民族音楽が見直されるようになった。


②何故室内楽曲がこれほどまでの隆盛を迎えることが出来たのか

→開拓されつくした感のあるオペラは少し陰りを見せるが、これが器楽合奏に幸いする。(18世紀にはオペラがほかのどのような形式をも圧倒していた。)

→室内楽曲の蘇りは、様々な芸術の中で、音楽こそ重要なのだという新しい考え方に由来する。

ということでした。
むむ?という感じ。


【考察】

問い①はまだいいとして、②については、もう少し深堀りする価値があると思いました。

私としては、本当にオペラが陰りを見せたのか、ということと、

そのオペラの陰りは、器楽合奏、とりわけ室内楽曲に注力するようになる契機として妥当であると言えるのか、ということです。


まずオペラの陰りについては、Wikipediaや、オペラに詳しい方が大体まとめてくださっていた記事を読むと、確かに経済的理由や、作曲家らの力量など、様々な側面で限界があったことがうかがえます。

こうして隆盛を極めたグランド・オペラ様式も、ちょうどガルニエ座が創建された1875年頃にはその衰退がみられるようになってきた。
外的な要因としては、巨大化するばかりの舞台装置の維持・運営コスト(オペラ座は照明用のガス料金の減免交渉をしばしば政府と行っている)、歌手陣、合唱団の肥大化とそれに伴う芸術性の低下、1870年からの普仏戦争による混乱と、フランスの敗北による経済的疲弊、舞台関係者の相次ぐストライキ、1873年に当時のオペラ座だったル・ペルティエ劇場が火災で焼失、貴重な舞台装置や衣装、楽譜等を失ったこと、などが考えられる。 しかし、より大きな要因は、グランド・オペラそのものの芸術性に対する疑問であろう。ドイツでのワーグナー、イタリアでのヴェルディなどはオペラの芸術としての可能性をそれぞれの方法で追求していった作曲家たちだが、パリの作曲家たちは舞台効果の新奇性に頼るばかりで、結局のところ新たなものを生み出すことができなかった。

Wikipediaより抜粋

オッフェンバックさんとかがオペレッタで盛り上げてくれたはずなのですが、それも一時的な流行に過ぎなかったようです。

その他の参考記事)フランスオペラの歴史 | オペラディーヴァ


もう一つ、上記のようなオペラの陰りが、室内楽曲に注力する契機となりうるかどうかについてです。私としては、オペラの陰りというより、【概要】内で記述した、

>音楽教育が中等、高等教育に導入されるようになった

 -高等音楽院にて、音楽史の講義を開講

 -続いてコレージュ・ド・フランスと、ソルボンヌにも音楽史講座を創設

の内容が気になります。今まで音楽史の教育がなかったというわけではないと思いますが、導入されるようになったというのは一体どういうことでしょう^^;

調べていくと、どうやら当時のパリ音楽院では、自分の専攻の専門性を磨くことが第一で、その他の音楽的な学習、特に音楽史についてはほとんど重要視されていなかったようです。

カリキュラムの狭さ、専門性の低さ、教員らの高齢化、生徒のモチベーションの低さなど、様々な問題を抱えていた様子・・・

井上(2020)((https://ai-arts.repo.nii.ac.jp/record/743/files/M15_2%20inoue.pdf))によると、

パリ音楽院では19 世紀の作曲家の作品だけに焦点が当てられていたため、
学生たちは1800 年以前の音楽をほとんど知らず、その歴史についてはさらに
知識がなかった。音楽史のクラスがあるにはあったが、学生たちには音楽史を
学ぶモチベーションが完全に欠けており、19 世紀末、このクラスには本来の
授業を受けるべきパリ音楽院の学生ではなく、むしろ、音楽史について知識を
得たいと願う婦人たちなど、外部の聴講生が集まるようになっていた。つまり、
音楽史のクラスはカルチャー・スクール化していたのである。

そのような状況下にあるパリ音楽院のカリキュラムや、音楽院としての在り方に対し、フランス人の作曲家 V.ダンディ😎🎩さんが改革案を提示します。
//ダンディ🎩さん自身もパリ音楽院出身です


吉岡(2024)((https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/kernel/0100483365/0100483365.pdf))によると、

ダンディ🎩の改革案としては、

-技術教育を行う第一段階と、芸術教育を行う第二段階に分けた教育システムを構想(ブログ主の補足:初級と上級に分ける感じ)

-以下の分野において第二段階に移るためには、第一段階の学習を終了し、試験に受かる必要がある

1.ソルフェージュ、2.歌唱、3.器楽、4.作曲


ということでした。
器楽コースについては以下に抜粋を載せておきます。

器楽教育は個別コースと器楽アンサンブル・コースに分かれる。前者は、弦楽器、管楽器、鍵盤楽器に細分化される。和声コースを履修していない器楽専攻の学生がコンクールに参加するためには、ソルフェージュの学習を終了している必要がある。弦楽器コースは、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、ハープから構成されている。弦楽器コースの学生は、器楽アンサンブルの中のオーケストラの第二段階に進んでいない限り、コンクールに参加することはできない。一方、管楽器コースは、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット、トロンボーン、サックスなどがあり、管楽器第二段階の学生は、試験やコンクールで標準楽器と派生楽器を演奏することが義務付けられている。鍵盤楽器のコースには、ピアノとオルガンの 2 種類の区分がある。オルガンを除くすべての器楽の第一段階では、運指とポジション、楽器の具体的なテクニックなどを学習し、古典的な器楽曲の様々なパッセージを学ぶ。第二段階では、フレーズとメロディ、ハーモニー、リズムのアクセント、移調などを学び、楽器そのものや楽器の歴史についての知識を深める。それに対してオルガンの第一段階は、オルガンの技術的側面や様々な伴奏の在り方などについて学び、第二段階では、フーガや、与えられたテーマに沿った様々な形式の曲の即興演奏、定旋律などの様式とその歴史的形成に関する知識、オルガンの曲や楽器に関する知識を学ぶ。一方、器楽アンサンブル・コースは、 室内楽コースとオーケストラ・コースに分かれる。室内楽コースの第一段階は、弦楽器または管楽器のためのソナタ、三重奏、四重奏などをピアノと一緒に学ぶ。第二段階は、弦楽器または管楽器のための三重奏、四重奏、五重奏などを学び、室内楽のために書かれた主要な作品について、深い歴史的知識を身に付けるようにする。

一方、オーケストラ・コースの第一段階は、古典的管弦楽曲の演奏、作曲専攻の学生によるオーケストラ作品の演奏などを行う。オーケストラのレッスンは、すべての器楽専攻の学生が、自分のパートを演奏することができると判断され次第、必修となる。第二段階では、公開実習に向けて、古典または現代作品の最終仕上げに取り組む。4 年間で少なくとも 1 回は、第二段階の声楽アンサンブル・コースと第二段階のオーケストラ・コースが組み合わされる予定(Pierre 1900:374-375)。

そのほか、個人作曲コースは和声コースと作曲コース、更に作曲コースは対位法とフーガ、交響曲作曲、劇音楽作曲に分かれる、といったように、各分野において学習内容を細分化することで、学習内容の専門性を高める案を提唱しています。


ダンディ🎩さんは、音楽院の改革委員会にこの改革案を提出するも、理不尽で的を射ていない理由により否決されてしまいます。

//作曲家のラロさんは、「改革委員会なのに、『全面的な改革になる』という理由で提案を否決している」と批判していて、ウケます。

しかし、ダンディ🎩さんは諦めず、自身が大切にしている温故知新の精神を反映させたスコラ・カントルムを設立することになります。

またダンディ🎩さんの努力は、のちの作曲家らに強く影響を与えます。G.フォーレさんは、宗教音楽家養成学校の二デルメイエール出身ということもあって、スコラ・カントルムの精神に共感し、パリ音楽院の教育内容の改革に着手してくれます◎ ナイス!!(^^)!

G.フォーレによる教育内容の改革については、以下の論文に詳しく書かれています。
井上(2007)((https://core.ac.uk/download/pdf/231082725.pdf))


更に、同論文内にて、音楽史をはじめとするカリキュラムの見直しや、それに伴って室内楽曲への取り組みが重要視されるようになった背景として重要な記述がありますので、大切な部分を抜粋しながら載せておきます。

ゴーティエの後を継いで、1878 年 10 月 15 日付けでパリ音楽院の 3 代目の音楽史の教授に就任したのが、ルイ・アルベール=ブルゴー・デュクドレー Louis AlbertBourgault=Ducoudray(1840-1910)である。


1874 年、ブルゴー=デュクドレーはフランス政府から派遣されてギリシアで民謡を収集し、帰国後、それらに伴奏をつけて出版し、また、調査内容を小冊子にまとめて出版した。彼は 1878 年の第 3 回パリ万博でギリシア音楽について講演を行い、大きな反響を得た。・・・1830 年以降に作曲されたフランスの作曲家によるオーケストラ作品と室内楽作品の演奏を中心に多くのコンサートが企画された。この万博では「事物の万国博覧会」だけで なく「頭脳の万国博覧会」も同時に開かれたことが特徴で・・・その講演会のひとつとして 9 月 7日に行われたのが、ブルゴー=デュクドレーによる「ギリシア音楽における旋法」だったのである。 万博の講演の内容は 1874 年の現地調査の総まとめとも言えるもので、その中でブルゴー=デュクドレーは旋法の可能性について触れ、古今東西のあらゆる旋法をとりいれて、探求しつくされた近代ヨーロッパの長短調システムを若返らせることを提案した。今回の万博講演でユニークだったのは、さまざまな旋法の作品が実際に演奏されたことで、それらの旋法による旋律の和声づけにあたって、長短調のシステムにしばられないやり方が紹介され、実演が行なわれた。 アンリ・ゴナールは、この講演でブルゴー=デュクドレーが旋法を単に「考古学的に」再構築しようとするのではなく、音楽創作に生かそうと提案していいこと、また、その創作も宗教音楽に限定していないという点を重視している(Gonnard 2000:47)。この講演についてはケックランも言及しており(ケックラン 1962:9)その反響の大きさがうかがえる。 ブルゴー=デュクドレーがパリ音楽院の音楽史の教授に任命されたのは、こうした万博での活躍ぶりも評価されたからではないだろうか。実は 1878 年の「音楽展」をきっかけとして、パリ音楽院の教育体制自体にも変化が起こっていた。トマ院長のもとでこの年、パリ音楽院の組織の見直しが行われ、弦楽四重奏のクラスやヴィオラのクラスの 新設が検討された。どちらも実施は見送られたが、こうしたクラスの新設が検討されたこと自体、室内楽の重要性が、それまでオペラ中心で来たパリ音楽院でも認識されてきたことの証であった。さらに、この組織の見直しにより、音楽史が新たに作曲と和声のクラスの学生にとっての必修科目となったことは重要であった。


室内楽曲に注力するようになった背景の補足として、吉岡(2023)((https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/kernel/0100481781/0100481781.pdf))の引用も載せておきます。

P.44「・・・まもなく私が劇場のために書くことを決定的に辞めてしまったことに驚きはないだろう。幸いなことに、私たちの芸術には様々な形のインスピレーションがあり、それらは非常に美しく高貴なものなので、音楽家は選択に困ることはない。確かに劇場は唯一富を得る道だが、裕福でなければ幸せではないのだろうか?それから、最近のフランスでは、喜ばしいことに交響曲や室内楽への好みが非常に広がってきている」


以上のことを踏まえると、私としては、室内楽曲が多く演奏されるようになった背景として、オペラの陰りも確かに起因していたかもしれませんが、それだけではなく、パリ音楽院やその他の音楽学校のカリキュラムにおいて、音楽史の学習や室内楽を演奏することを重要視するようになったために、弦楽四重奏曲も頻繁に演奏されるようになったのではないかと考えます。

>パリ音楽院では19 世紀の作曲家の作品だけに焦点が当てられていたため、
学生たちは1800 年以前の音楽をほとんど知らず、その歴史についてはさらに
知識がなかった。

という記述のとおり、学生たちが今まで昔の作品に触れてこなかったのだとしたら、過去の作品を聴くことで、学生たちは自分たちもやってみたいと思うだろうし、実際に演奏することでその魅力に気が付いて、のめりこむ学生も出てくるでしょうし、音楽や演奏に対する責任感が生まれてより多くの作品を勉強するということに繋がるのではないでしょうか。そのような機会が与えられるようになって、そのおかげで今の私たちが素敵な弦楽四重奏団の演奏をたくさん聴けるようになったので、良かったなあという感じです^^;


今回の考察は以上といたします。
弦楽四重奏については、次回以降は作曲家毎に探ってみたいと思います♪

お楽しみに~♡(*^^*)


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