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チリワインの世界 | 歴史編

最近チリ大のChilean Studies(チリ学)を修了しました。チリの政治経済・歴史・文化について、各分野の専門家の講義を通して多角的に学べる仕組みになっており、半年間とはいえとても密度の濃いコースでした。学びの集大成としてチリに関連するトピックを自由に選びプレゼンをするという最終課題があり、私はチリワインについて発表しました。

意外とちゃんとした会場

なぜチリワインにしたのかというと…端的にいうと、ハマってしまったからです。チリに来る前は、ワイン=お金と時間のある人が嗜むものというイメージが強く、外食した際にたまにメニューの上から2つ目くらいのを頼んでは、美味しいのかそうでもないのか、首を傾げながら飲んでいました。そんな頃から一変、サンチャゴに移住してからは、ワインの銘柄の多さと質の高さから飲む機会が増え、(そして何度も飲みすぎ…周りにご迷惑をおかけしながら…)何となく品種や味の違い、自分の好み等が分かるようになってきました。スマホの写真を見返すと、チリに来てから約1年間で100銘柄以上のワインを試していることがわかり、本来は飲酒量を反省すべきところ、一般の人よりはチリワインについて詳しくなっているはず!という謎の自信が芽生えてしまいました。

これまで試した中で美味しかったワイン(一部)

一方で真面目な話をすると、プレゼンに向けてチリのワイン業界に関するリサーチを進める過程で、国の歴史的背景が垣間見え、政治的・経済的影響力のある人物が密接に絡んでいることを知り、チリ社会への理解を深めるきっかけにもなりました。ここでは面白いと思ったポイントを中心に、発表の内容を数回に分けて共有したいと思います。第一回は、現代に至るまでのチリワインの歴史です。


16世紀~:チリワインの起源

チリにブドウの木が渡ったのは16世紀、ちょうどスペインの植民地になったばかりの時期でした。諸説ありますが、最初に持ち込んだのは修道士Francisco de Carabantes(フランシスコ・デ・カラバンテス)と言われており、キリスト教の典礼で用いられるワインを現地で醸造できるよう、教会主導で植え付けが行われたそうです。間もなく教会外にも広がり、1551年の植民地時代の文書には、ラ・セレナでチリ領初のワイン用ブドウの収穫が行われた旨が記されており、その功労者の一人としてコンキスタドール/大地主のFrancisco de Aguirre(フランシスコ・デ・アギーレ)の名が挙げられています。

Francisco de Aguirre(フランシスコ・デ・アギーレ)

その後はチリの気候との相性の良さもあり、18世紀末にはブドウ農園は約1.5万ヘクタールに達したと言われています。当時の推定人口が26万人であることを踏まえると(参考:現在は人口2,000万人で約13万ヘクタール)、主要な農作物として広く栽培されていた様子が伺えます。そして収穫量の増加に伴い、主に現地での消費目的で生産されていたワインは、ペルーやスペインにも徐々に輸出されるようになりました。

このように南米産のワインが流通するようになると、スペイン産のワインを保護する目的で、植民地のワインの輸出が禁じられました。この17世紀の貿易措置により、ペルーはピスコなどの蒸留酒への生産に切り替えた一方で、チリは根強い地元需要からワインの生産を続け、現在のワイン産業の地盤が築かれました。

19世紀半ば:変革期

このように主に自己消費目的で生産されていたワインは、19世紀半ば頃に分岐点を迎えます。チリ人の実業家のSilvestre Ochagavía(シルベストレ・オチャガビア)が欧州を旅した際にフランスのワインに感銘を受け、現地のブドウの品種をチリに持ち帰ったことがきっかけでした。当時のチリではパイスやモスカテルといった品種が中心に栽培されており、カベルネ・ソービニオン、コット(マルベック)、メルロー、ピノ、ソービニオン・ブランなどのフランスの品種で作られたワインは、それらと比べ「質が高い」とたちまち評判となりました。当時銀や銅(そして後に硝石)等の鉱業を中心に財を成したチリの上流階級の間では田舎にhacienda(アシエンダ)を設けワイナリーを持つことが流行っており、次々とワイナリーが設けられ、フランスの品種のワインが作られ始めました。この時期にできたワイナリーの中には現存する有名なものも多く、チリの3大ワイナリーともいわれるConcha y Toro(コンチャ・イ・トロ)、Santa Rita(サンタ・リタ)、San Pedro(サン・ペドロ)をはじめ、Cousiño Macul(コウシーニョ・マクル)やErrázuriz(エラスリス)も設立されました。

Silvestre Ochagavía(シルベストレ・オチャガビア)

奇しくもチリワインの変革期は、世界のワイン産業における史上最大の危機と重なりました。北アメリカに生息するフィロキセラというアブラムシの一種が貿易を通じてヨーロッパに上陸し、フランスのワイナリーに次々と深刻なダメージを与え始めました。フィロキセラは、ブドウの木の根に寄生し根腐れを発生させる害虫で、土の中に生息するため殺虫剤で駆除することができないという非常に厄介な性質を持ちます。そのため、1860年代にその存在が確認されてからまたたくまに広がり、ドイツ・スペイン・イタリアをはじめとするヨーロッパ全域に被害を及ぼした後、大陸を超えてオーストラリアやエジプト、さらには南米のブラジル、ウルグアイ、アルゼンチンにまで広がりました。

フィロキセラの風刺画(1890年)

ここで注目すべき点は、世界中がフィロキセラに苦しむ中、チリがその被害を免れた数少ない国の一つであったことです。その理由は諸説ありますが、アタカマ砂漠とアンデス山脈に囲まれ地理的に隔離されていることや、フィロキセラの蔓延を恐れたチリ政府により1877年にブドウの木の輸入禁止策が取られたことが挙げられています。このような背景もあり、フィロキセラの被害を受けなかったチリでは、世界的にも最も古いとされる200年以上続くブドウの木が今でも存在します。

20世紀初頭~1980年代:停滞期


19世紀後半から産業革命の後押しを受けさらにチリのワイン産業が成長し、同時にアルコールの生産量が増加すると、国民一人当たりのアルコール消費量が90リットルに達し(参考:日本は2021年時点で74.3リットル)、アルコール依存症が社会問題として認識されるようになりました。当時のチリの政治エリートは、この問題を鉱山や工場等の労働者階級の行動と結び付け、1902年には国内初の酒量法でアルコールの生産・販売を制限し、1932年にはワインの生産量を制限しブドウ農園の拡大を禁止する改正法を施行しました。

Liga Nacional Contra el Alcoholismo(全国アルコール依存症対策連盟)の月刊誌

上流階級がワイン産業に関わっていた中、彼らの利益に反するような政策に対して反発はなかったのかと疑問が湧いてきますが、当時はワインの過剰生産による価格低迷が問題となっており、価格を引き上げるために生産量を制限べきだというワイナリー所有者の主張と、アルコール依存症を防ぐための社会政策がマッチしたようです。加えて労働階級を「守る」という観点から左派からも支持を得て、満場一致で可決されました。

この一連の出来事を受け、いうまでもなくワイン産業の成長は頭打ちとなります。その後も慢性的な政情不安が続いたのに加え、昼食のために家に帰ったりワインを飲みながら食事をしたりすることを禁止するLey de la Jornada Únicaが1965年に制定され、状況は大きくは改善しませんでした。そして1973年のクーデターを経て政権を掌握したピノチェトの下で国内のワイン消費量はさらに減退し、1985年時点の市場規模は推定US $11mn程度にとどまりました。

1990年~:復活と成長

このようにワイン業界の低迷が続く中、復活に向けて2つの出来事がありました。一つ目はスペイン人の酒造家であるMiguel Torres(ミゲル・トーレス)が、事業を拡大する目的で1979年にチリにワイナリーを設けた際に、ブドウの発酵の過程で用いるステンレス・スチールのタンクを持ち込んだことです。当時のチリでは長年続く停滞期のせいで時代遅れの製法が用いられており、衛生状態の悪い木製の樽によってワインが劣化してしまうことが多く、この新たな技術の導入により質が安定するようになりました。

Miguel Torres(ミゲル・トーレス)

そして二つ目は、ピノチェト独裁政権下で行われた農地改革の撤廃でした。チリでは植民地としての名残から、少数の大地主が大部分の農地を所有し、その土地を小作人または農場労働者が耕す小作制度が一般的でしたが、小作制度につきものである農業生産性の低さ(自分が所有する土地で100%自分の利益になった方が人は頑張る)、また小作人や労働者の貧困問題が深刻化し、1958年のアレサンドリ、1964年のフレイ、そして1970年のアジェンデという左右両派の3つの政権に渡り農地改革が行われていました。特にアジェンデ政権下では急速に土地の国有化が進められましたが、ピノチェト及びシカゴ・ボーイズ(チリにネオリベラリズムを導入した経済学者たち)の指揮下でこれらの土地は次々と返却ないしは売却されました。この時期に手に入れた土地でワイナリーを設立する人もおり、生産性向上と格差是正を目的とした農地改革はあえなく失敗に終わった一方で、ワイン業界の発展の足掛かりとなりました。

1990年にチリが民主主義に移行し輸出ブームが起きると、それまで停滞していたワイン業界を立て直す動きが本格化しました。当時先に輸出が伸びていた青果産業に人材が流れてしまっており、国内の酒造家が不足していたため、海外の専門家がチリのワイナリーに積極的に誘致されました。これらの専門家が輸出に適した国際的なワインのスタイルをチリに持ち込んだこと、さらには内外の資本流入によりワイナリーの生産規模が拡大したことによって、1990年には世界の輸出マーケットシェアがわずか0.96%だったチリワインは2000年には4.01%となり、未曽有の急成長を遂げました。

当時来た海外酒造家の中には独立している人も多く、90年代にチリに来たEd Flahertyは、Cono Sur・Errázuriz・Tarapacáで働いた後にFlaherty Winesを設立している

≪参考文献≫



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