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哲学に駆り立てたのは

哲学書を読んだことはほぼないけど、
ライトな入門書や薄いムック本、
解説と謳いつつ読んでも3割くらいしか
わからないような本でもなんでも、
哲学関連の本を常に読んでなにかテーマに
取り組んでいないと息も吸えないような
感覚の時期があった。

あの時、自分を哲学に駆り立てたものはなんだったのか、振り返る。
正確な答えはわからない。
あとから言葉で描写しているだけ。
それでも、きっとこれな気が今はする。

まず、とにかく生きるのが心許なかった。
大人たちがみせる世界はあまりにも手垢にまみれていて、その世界を生きるのはあまりに心許なかった。
というか、私がやるにはほとんど無理に思えた。

でも、世界のあるがままの姿に到達すれば、
私でも「大丈夫」になれるのではないか?
という希望がちらついていた。(のだと思う…)
ありのままの世界と、そこに生まれた自分を信じようとした。(のではないかなぁ…?)

たとえやはり生きれない世界だったとしても、
そこには少なくとも納得があると思った。

いま、端的に言うなら、
"現実の厳しさ"に直面するなら、おまえらの小我のルサンチマンではなく、せめて合理性がほしい。
そんな気持ち。

もうひとつは、上記と矛盾するかも。
生きるため、ではなく、自分を生きることから逃げるため。
でもある意味それも、"生き延びるため"かな。

この、3次元の現象世界に絶望していた。
得体の知れない身動きの取れなさ、
見渡す限り、なにを望むこともできない自分、
なにもかもあるようでなにもない、あらゆることが虚しい。
"ここ"に求めるものはもうなにもないように思えた。

ほんとうにおもしろいものは、
本当に取り組む価値があるのは、
世界に残された希望(ワクワク)は、
形而上(頭/心のなか)にしかない
と当時は本気で思っていた気がする。

リアルの世界(現象世界)は、それらを考えるためのネタ提供の場でしかないと捉えていた。
生きるための哲学ではなく、哲学のために生きている。そんな感じ。
目的と手段が逆転していた。
でもそう感じていた方が気がラクだった。
自分の人生生きなくていいし。
現実逃避。わかってた。

おもしろいのは、実際、哲学界は、
①「善く生きるため」に「実用的でないと意味ないぜ派(プラグマティズム)」と、
②「真理のパーフェクトな論理体系の城をつくったる派」とわかれたりするよね。

でもある時、NHKのムック本の注釈にあった、こんな情報が目に入ってきた。
②に愚直に取り組もうとしたあのデカルト先生すら、リアルに自分の人生を生きることの重要さを説いているらしい。

啓示のようだった。
わたし自身も、そういうタイミングだったのだと思う。
そこから、リアルの泥くさい、不恰好な、
心許ない、わけわかんない"自分がいる"人生を
生きようと思った。
それがないと、つまんないんだな、ってようやく受け入れた。わりと時間がかかった。

そこからなんやかんや、歩き回り、走り回り、
恐れながら、見失いながら、休みながら、
気づいたらメンタルモデル(由佐美加子提唱)に出会っていました。
"欠陥欠損"
身動きの取れなさ、生きている心許なさに
答えを与えられてしまった…(暫定にしても)

そんな今、あの時みたかった、あるがままの世界を"体験する"に近づく実践のテクノロジーに、興味津々なのです。
そしてやはり"現実"は"厳しい"なぁ。
でもひとりではないとわかった。
3次元の現象世界は思ったほど虚しくもないらしい。
希望は、ある。そう、遥かに。
おもしろくなってきたよ。

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