流葉
うつ病と診断され薬を飲んでいた日々の日記です。 治療のこと、その時自分の周囲の事、その時思っていた事、今だから思う事 などなど綴ります。何年も前のお話です。自分の生きた証。
更新したいが、今は目の前のことを片付けないと。 あれこれ求めすぎるとオーバーワークで体を壊すので我慢。
前回のとおり、パキシル5mgの減薬で状態異常を起こしたまま、1週間耐えてみた。 正直辛かったけど、1週間はなんとか耐えた。 1週間耐えたんだ、じゃあ2週間目もいけるわ! と、そのまま2週間目も耐えることにした。 ちなみに過去に体験した離脱症状はせいぜい1日だったから、この時点でかなり頑張っている。 キツイキツイとうんうん言いながらも、なんとか2週間耐え、次回の診察日を迎えた。 担当医に「たった5mgの減薬なのにめちゃめちゃキツイです」と素直に伝えた。しかし医者も「5
前回のとおり、パキシル20mg/1日から15mg/1日に変更してみた。 ここで自分のパキシルの歴史を振り返ってみる。 スタート20mg/1日 ↓ 数か月後60gm/1日まで増 ↓ 1年後40mg/1日まで減 ↓ 2年後20mg/1日に減 それ以降、4年目まではずっと20mgで続けてきた。 60mg→40mg→20mgと、けっこうな減薬だったが特に苦労した記憶はない。 ただしこの時は、他の抗うつ剤も多量に併用して飲んでいた。 例えば1年目(めちゃ量が多いとき) ルボ
寒い!寒すぎる!!こんなに気温が乱高下すると身心のバランスを崩す人もいるよねー、慣れるまでは、ほどほどに生きよう。
ボランティアから帰宅して数日。 とりあえず今回の体験を振り返った。 ここ数年寝室以外で寝たことがなかったが、マイスリーに頼りながらもとりあえず夜行バスで横になることができた。 作業中や帰りのバスでも、おかしな体調不良は出なかった。 短時間ではあるが、災害ボランティアの体験を通して少しだけ自信を取り戻した。 少しだけ自分に羽が生えた気がした。 今後バックパッカーをしたいという夢も含め、体調不良を抱え家でジトジト生きてる生活から離れ、何かを得られるチャンスなんじゃないか
前回のお話 現場について最初の30分くらいは、皆漠然とそれぞれが作業をしていた。 しかし、このままでは作業が全然進まないのでは? という不穏な空気が出てきた。 そこでD君と僕で作業工程を整理しようという話になった。 作業の手順としては ・側溝のコンクリート板を開ける ・泥をすくう ・すくった泥を用意された専用の布袋に入れる ・泥がいっぱいになったら袋を閉じる ・閉じた袋が集まったら台車に乗せ回収所へもっていく ・コンクリート板を側溝に戻す こんな感じだ。 これらの工程
前回のお話。 ボランティアへ行く当日となった。 といっても深夜バスなので、厳密には前日出発。 21時に自宅から電車でバスターミナルへ向かう。 学生時代やその後も、遠距離移動は前乗りが多くだいたいが深夜だった。 帰り時間に帰宅するのではなく、家とは別方向へ行く特別感にワクワクした思い出がある。 ボランティア前で不謹慎だが、その思い出がよみがえり懐かしい気分になった。 22時定刻通りに深夜バスは現地へと動きだした。 時間が時間なので出発してすぐにバス内は消灯になった。 暗
前回のキラキラグループでの出来事の後、体調不良も落ち着いてきた僕は次の事をはじめようと考えていた。 そこでA社を辞める少し前ぐらいから頭の中に沸いていた、海外でバックパッカーをして色んな人に会ったり、文化風習の違いや景色を体験したいという夢が再燃してきた。 今この空白期間ならできるんじゃないかと急に思った。 年齢的にもムチャができる最後のチャンスかもしれない。 荒唐無稽のようでもあるが、アメリカやカナダに友達がいるし、これまでの経験を踏まえると、もしかしたらできるかも?
前回のお話 僕の事実はこうだ。 環境の変化や、陰口の言い合いを聞いてしまったこともあり、僕はこのキラキラグループから疎遠になってしまっていたときのこと。 ふとしたきっかけでおっとり系のYちゃんが僕に連絡をこまめにくれるようになった。(たしか昔撮った写真とかの話だったと思う、Yちゃんは写真担当だったから)嫌な気もしないので普通に仲良くなった。 僕自身、クソ忙しい時期だった。 Yちゃんとのやりとりが癒しにもなっていった。 それじゃあ会って遊ぼうよってなるのも自然な流れだっ
続くときは続くもので、このタイミングでもう1つ異性の話。 A社を辞め、Uさんとも別れた後の事。 長引いた体調不良も少しずつ回復しはじめてたときのこと。 地元友達から久しぶりに飲み会の誘いがあった。 こんな僕ではあるが地元友達のグループは2つあり、1つは小学校ベースの男グループ、もう1つは高校ベースの男女混合グループだ。 地域的にわけると両者の違いは、自宅からみて幹線道路の向こう側と、手前側に分けることができる。ちなみに後者は向こう側。 両者は近いが、人の雰囲気は全く異
前回のA社を辞めた前後、4年目の夏前の話、2つ目。 彼女と別れてしまった話。 A社のことでいっぱいいっぱいになり、体調不良のどん底で余裕ゼロになった僕は、彼女Uさんに連絡するのを怠っていた。 こんな時だからこそ、もっと彼女を頼れば良かったのに、相談すればよかったのに。Uさんはこんな状態の僕でも良いと言ってくれ、ひたすら応援してると言っていたのに。 Uさんにちゃんとしているとこを見せたくて、正直な自分の姿にカバーをかけ自暴自棄になった。 と、いつものイジケ根性、もしく
前回のA社を辞めた前後、4年目の夏前の話。 A社を辞めた後の事で思い出したこと。 いや覚えていたんだけど、というか刻み込まれていた事なんだけど。 なんか脱線しそうだし怖いから書かなかった事。 僕がA社を辞めた理由は、体調不良が主だった。 しかし理由はもう1つある。 もう1つの理由というか、結局同じことなんだけど体調不良が加速した原因というか、根源か。 それは前回も書いたがA社人材の若さだった。 A社の人は学校出たばかりの人、成人したての人も中にはいた。 それぐらい若かった
4年目の春ごろのお話 不採用の件で落ち込んだけど、とりあえず自分でその時出来ることはやったし、準備不足を含めたトータルでの実力不足だったのは大いに納得。そりゃそうだ「届かない」と今でも思うほど。だから良い意味で諦めがついていた。 なので翌週ぐらいには「じゃあ、次」という感じに開き直った。 すぐに僕はまた自分が発揮できそうな場所を探しはじめた。 前回書いたように知らない人と連絡をとろうとすると眩暈がしたり、心臓がバクンバクンになったり変な身体症状が出たけど、それでもめげず
薬を飲み始めて4年目、最初の方のお話 4年目の始まりも3年目と同じく忙しかったと思う。 若干そこは記憶が曖昧、でも酷い体調不良の記憶はないので軽減していたはず。 実は少し前の12月後半ぐらい、僕は凄い作品を作る(表現ぼかしてます)D社を知った。 しかもD社の中には前にF社で僕と一緒に仕事をしてたT君がいた。 そして今D社は人を募集をしているとのこと。 前回に引き続きなんでもチャレンジしてみようという気持ちのままだったので、一応経験者だし、代表のKさんともとりあえず面識
やっと続きが投稿できた。 はひー
hirono_32さんの素敵なイラストをお借りしています。 ありがとうございます。 前回書いたCさんとの出会いで外出することが増え、僕はすっかりアクティブになっていました。 実際に、Cさんが異業種交流会などの場へ連れて行ってくれた事がとても刺激になり、物怖じせずになんでもやってみようという気分になったのは、とても良いことだったと思います。 学びたければ、教えてくれる人を探そうとか、誰かと何かをやりたければ、どこかの仲間の輪に入れてもらおうとか、僕は新しい方向性へ転がりは