【古代オリエント7】 ファラオの王国(1) 〜始まりから中王国まで〜
●世界史シリーズ Sec.7
前回は古代エジプト3000年の王朝史を概観しました。引き続き,エジプト文明の特質や統一王国の変遷などについて,3回に分けて記します。
1) 「ナイルの賜物」 〜そのメカニズム〜
[写真]エジプトの衛星画像(NASA提供)
現在のエジプト・アラブ共和国は国土の95%が砂漠です。衛星画像では,赤茶けた砂漠が広がる中,上エジプトのナイル河谷と下エジプトのデルタ地帯の「緑」が際立っています。
ナイル河谷は,長い年月の間にナイル川が台地を侵食して形成した谷で,ナイル川の氾濫原となります。ここには肥沃な土壌が堆積し,穀物などを栽培する耕地が開かれました。
前5世紀のギリシアの歴史家ヘロドトスは,その著書『歴史』の中で,ナイル河口デルタの豊かさを形容して「エジプトはナイルの賜物」であると記しました。
国土の大半が砂漠のエジプトにおいて,ナイルの恵みなくして,3000年に及ぶ安定した王国が築かれることはなかったでしょう。
ナイル川の最大の利点は,その増水と氾濫のメカニズムが極めて規則的で穏やかだったことです。
ナイルの水源はアフリカ東部の熱帯地域に2か所あります。
その一つのエチオピア高原では,6〜9月の雨季に多量の雨が降り,それが濁流となって,ヴィクトリア湖を水源とする本流に流れ込みます。
そのため,毎年計ったように6月の夏至の頃,ナイルの中・下流で増水が始まり,9月中旬〜10月上旬に水位が最高に達します。
川からあふれた水は堤防をこえて氾濫し,約1か月にわたってナイル河谷一帯を水で満たし,上流から運ばれてきた肥沃な土を沈積します。
氾濫といっても,川が長い距離をゆるやかな勾配で流れるため,増水は時間をかけて少しずつ進行し,増水量も毎年ほぼ一定です。
急激に水位が上昇して洪水被害をもたらすようなことは滅多になく,この点で,ティグリス川・ユーフラテス川の洪水でたびたび破壊的な被害に見舞われたメソポタミアとは大きく異なります。
エジプトでは,ナイルの増水状況を見極めながら,事前に氾濫を察知して対処することができました。そして,貯溜式灌漑(下記解説)のような灌漑方式も可能になったのです。
エジプト文明を育んだ豊かさの源泉は,ひとえに安定したナイル川の恵みにあったわけです。
<解説> 貯溜式灌漑(湛水灌漑)
古代エジプトでは,ナイル川の規則的な増水・氾濫を利用して独特の灌漑が行われました。
▶︎ナイル川の氾濫水を水路で畑に引き入れ,水門を閉じて畑に水を満たす。
▶︎ため池状態の畑を40〜60日放置する。
→肥沃な土が畑に沈澱し,畑にたまった塩分が水に溶け出す。
▶︎ナイル川の水位が下がってから水門を開け,一気に排水する。
→畑から塩分が除かれ,肥沃な土が残って地力が回復する。
2) 「ナイル」と「シリウス」が生んだ暦
古代エジプトでは,ナイル川の増水・氾濫の規則性と天体観測により,独自の暦が生み出されました。
地球上で観測できる恒星のうち(太陽を除いて)最も明るい星はシリウス(ソティス)です。
エジプトでは,このシリウスが地平線の下に隠れて見えない期間が70日間あり,そのあと再び,日の出前の東の空に現れます。この現象を「ソティスの朝出」と言います。
この「朝出」の日が,偶然ナイル川の増水が始まる時期と一致したのです。さらに「朝出」から「朝出」までの周期を観測によって確かめたところ,365日であることがわかりました。
そこで,ナイル川の増水時期を予測するため,30日を1か月とし,[12か月+閏日5日=365日]で一回りする暦が考案されました。これが古代エジプトの太陽暦です。
[写真]古代エジプトのカレンダー(コムオンボ神殿)
アスワン近郊のコムオンボ神殿の壁に刻まれた古代エジプトのカレンダー。プトレマイオス朝時代のもので,ヒエログリフが用いられています。
古代エジプトでは,暦による12か月を4か月ごと3つの季節に区切り,氾濫季(夏秋),播種季(秋冬),収穫季(春)としました。
氾濫季は畑に水をためておく農閑期,播種季は麦の種子をまいて発芽・生育させる時期,収穫季は育った麦を収穫する時期です。
ナイル川の規則的な増水・氾濫は,麦の生育サイクルと合致しており,そこから生まれた暦は,言わば農業カレンダーだったわけです。
3) 統一王国の時代
前3世紀のプトレマイオス朝時代,マネトというエジプト人神官が,エジプトの歴史書をまとめ,ギリシア系ファラオに献上しました。
マネトはその中で,エジプトの歴史を第1王朝から始めて30の王朝に分けて記しています。
このマネトの歴史書をもとに,エジプトの王朝時代は,いくつかのまとまりに区分されます。
草創期の第1・第2王朝は初期王朝時代に区分されています。
初期王朝時代より前に,上エジプトを統一した王国が下エジプトを征服して統一国家を建設したとされますが,その詳細は不明です。
さらに,エジプト全土を一つの王朝が統一して栄えた時代が3回あり,古王国時代(前27〜前22世紀),中王国時代(前21〜18世紀),新王国時代(前16〜前11世紀)と呼ばれます。
▶︎初期王朝時代(第1・第2王朝)
マネトは,エジプト全土を統一した第1王朝初代の王を「メネス」とし,上・下エジプトの境に王都メンフィスを建設した,と記しています。
このメネスについては,考古学上,前3000年頃に存在したナルメル王とするか,次代のアハ王とするかで見解が分かれています。
この時代には,エジプト文明の基礎や中央集権国家のしくみが形作られました。王は神(ホルス神)の化身であるとされ,王権を神格化する理念が発展しました。
また,第1王朝時代から対外遠征がさかんに行われました。外敵からの防衛のほか,王家による対外交易の独占などの目的があったようです。
西方のリビア,東部砂漠,南方のヌビア,北東のシナイ半島から,パレスチナなど西アジアにまで進出しています。
<一口メモ> 古代エジプトの遠征と交易
ピラミッドなどの建材となる石灰岩などの石材はエジプト各地で産出し,ナイル川の水運によって長距離輸送も可能でした。
また,近隣には鉱産資源などの産地も多く,古くから遠征や交易が行われていました。資源調達地には以下のような地域があります。
▶︎シナイ半島:銅やトルコ石の産地。
▶︎東部砂漠:金や石材の産地。
▶︎ヌビア:金や木材の産地。内陸の産物(黒檀や象牙など)の交易地。
▶︎ビブロス(レバノン):船などの建材となるレバノン杉の積み出し港。
4) 古王国 〜神王のピラミッド造営〜
初期王朝時代から連続する第3〜第6王朝を古王国時代と呼んでいます。
首都メンフィスを中心に中央集権化が強化された時代で,古代エジプトのイメージそのものである巨大ピラミッドが造営された時代でもあります。
第3王朝では,ファラオを「神の化身」とみなす思想が確立しました。そして,第2代ジェセル王が初めてピラミッドを建造させました。
最初は,マスタバと呼ばれる方形の王墓にする計画でしたが,何度も設計変更され,最終的に6段の階段ピラミッド(下の写真)になりました。
これは,神である王が天に昇るための階段を象徴したものと考えられています。
次の第4王朝が古王国時代の全盛期です。
この王朝では,太陽神ラーへの信仰が高まり,王は太陽神の化身であると考えられるようになりました。
第4王朝初代の王は,四角錐の真正ピラミッドの建造に成功しました。
四角錐は太陽光線を象徴するものと考えられ,王は太陽神であり,太陽光線に乗って天に昇るとされたのです。
第4王朝第2代のクフ王のとき,ファラオの権威は最高潮となり,メンフィス郊外のギザに史上最大のピラミッドが建造されました。
ギザには,クフ王の子のカフラー王やその子のメンカウラー王のピラミッドも築かれています。
しかし,このような巨大ピラミッド造営の負担は重く,長続きはしませんでした。
[写真・図版]ギザの大ピラミッド群
写真の3つのピラミッドは,奥から順に…
最奥:クフ王(高さ146.6m/底辺230m),
中央:カフラー王(高さ143.5m/底辺215m),
手前:メンカウラー王(高さ66m/底面102.2m×104.6m)のもの。
メンカウラー王のピラミッドは規模が大幅に小さくなっています。ピラミッド造営の負担に耐えられなくなったことや,宗教的な情熱の低下など,様々な事情が推測されています。
次の第5王朝では,ファラオは太陽神の化身ではなく「太陽神ラーの子」とされるようになりました。そして,ピラミッドの多くは高さ50m前後にまで縮小されました。
一方で,高級官僚が王族以外から任命されるようになり,ファラオの権威は徐々に低下しました。
第6王朝は古王国の衰退期にあたります。衰退の要因としては,以下のように諸説があります。
官僚制度が肥大化・複雑化して官僚の数が増え,財源を圧迫したこと。
ピラミッドの造営も続けられ,その維持管理の負担は重いものでした。
地方官僚が任地で土着化して世襲化が進み,地方豪族が力を増したこと。
王権によるコントロールが利かなくなり,王国の経済力は弱まりました。
そして,気候の変動でナイル川増水時の水位が下がって農業生産が落ち,たびたび飢饉が起こったこと。
いずれにしてもファラオの権威は弱体化し,地方分権化が進んで,王国は分裂へと進んだのです。
<一口メモ> 行政区画「ノモス」
古代エジプトの行政区画はノモス(州/ギリシア語)と呼ばれ,下エジプトのデルタ地帯に20,上エジプトに22のノモスがありました。
各ノモスには王朝時代より前から発展していた州都があり,エジプト文明草創期の共同体(小国家)が源流であるという説もあります。
5) 中王国 〜中央集権国家の再興〜
第6王朝の解体後,エジプトは統一王権のない混乱期(第1中間期)に入ります。中間期の後半には,北部の第9・第10王朝と南部の第11王朝の2王朝が並立していました。
南部のテーベに起こった第11王朝は,ヌビアの資源と傭兵を手中にして,北部に対して優位を保ちました。
そして前2040年頃,第11王朝のメンチュヘテプ2世が北部を征服し,エジプトを再統一しました。中王国時代の始まりです。
メンチュヘテプ2世は,テーベを首都として中央集権体制の復活につとめ,この時代,行政機関の要職は,王族を中心とするテーベ出身者で占められていました。
[写真]メンチュヘテプ2世の肖像
第11王朝第4代の王で,エジプトを再統一し,のちにメネスと並ぶエジプト国家第二の創設者とされました。テーベ近郊のメンチュへテプ2世葬祭殿遺跡出土(ニューヨーク市・メトロポリタン美術館蔵)
次の第12王朝は,前王朝の宰相だったアメンエムハト1世が起こしました。アメンエムハトは王家の血統ではありませんでした。
一説には,王家に敵対する地方豪族に担がれてクーデターを起こしたのではないかとされています。
アメンエムハト1世は自らの王位を正統化するため,自分の王位継承は,第4王朝時代に神官が王に予言していたことだとする物語を創作しました。
また,自分の名前にある「アメン」がテーベの地方神アメン(アモン)に由来することから,このアメンを国家の守護神としました。
さらに,古王国の伝統と結びつくことで正統性を強めようとし,旧都メンフィスの南にあるイチタウイに新しく都を建設しました。
イチタウイは,地理的にデルタ地帯(下エジプト)と上エジプトの両地域を支配するのには適していました。
第12王朝の基盤を固めたのは,第5代センウセレト3世でした。
この王は,ヌビアのクシュ侯などの勢力を撃つために軍事遠征を行い,ヌビア方面の領土を固めました。また,隊商の交易路確保のため,パレスチナ南部へ初めて軍事侵攻しました。
さらにこの王の時代には,地方豪族の勢力が削がれて中央集権化が進み,王に権力が集中する官僚国家体制が完成したとされます。
しかし,つづく第13王朝では,短命な王が次々に交代して王権は不安定になりました。宰相が事実上の実権を握り,官僚機構によって運営されていたとされます。
デルタ地帯では,シリア・パレスチナ系と考えられる第14王朝が成立し,ヌビアではクシュ王国が勢力を増して南部の領土を奪いました。
こうして,エジプトは再び混乱期(第2中間期)に入りました。
なお,この第13王朝を中王国に含めるかどうかについては見解が分かれています。
《参考文献》
▶︎青柳正規著『人類文明の黎明と暮れ方』(興亡の世界史00) 講談社 2009
▶︎笈川博一著『古代エジプト』(講談社学術文庫) 講談社 2014
▶︎大貫良夫他著『人類の起源と古代オリエント』(世界の歴史1) 中央公論社 1998
▶︎河合望著『古代エジプト全史』 雄山閣 2021
▶︎『最強の帝国 覇者たちの世界史』(ナショナル ジオグラフィック 別冊9) 日経ナショナルジオグラフィック社 2018
★次回「古代オリエント8 ファラオの王国(2)」へつづく