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安全第一(心理的にも)
みんなで作るもの。
日雇いの建設現場にて
昔々、学生の頃。日雇い派遣のアルバイトをしていた。
「予定」が嫌いだったので、思いつきで働きたかったし、体力はあったので、深夜にパチンコ店のエアコンの清掃をしてみたり、夏の工事現場で鉄パイプやユニットバスを担いで一日中階段を上り下りしたり。保険料とか装備費とか謎の天引きが色々あって結局手取りは良くなかったけれど、まあ普通に暮らしていると行かない場所で働ける体験は結構楽しかった。
特にマンションとか老人ホームとかの建設現場は思い出深い。外部のむき出しの非常階段を使って、長い鉄パイプを担いで屋上まで運び上げる。まだ手すりがついてなかった。一応申し訳程度に紐はあった気がするけれど、おそらくふらついたら大して助けにならなかっただろう。
非常階段だから、ぐるぐると何度も角を曲がる。その間、3メートルくらいはある鉄パイプをぶつけないように気をつけながら登らなければならない。鉄パイプや壁を傷つけてはならないのは当たり前だけれど、それ以上に自分や同僚にぶつけてしまったら一大事だ。一応保険はついているようだったが、どうせ申し訳程度のものだったろうし、治る怪我なら良いが、治らない可能性だって大いにあるわけで。
ラジオ体操の記憶
朝は整列して、昼食後は各自の持ち場にてラジオ体操を行う。日々のルーチンとしてやっているだけなので余り身が入るものではない。でも、それでも災害予防には一定の効果はあったに違いない。
あちこちに「安全第一」と書いてある。少しスペースが広くて多くの目に止まるような場所では「災害ゼロの現場を」とか「指差し確認」とかの標語が、ネクタイに作業着とヘルメットの目が大きい男性のイラストとともに書かれている。もちろんこれは、一歩間違えば安全ではない現場であるということを意味していて、日々意識し一人ひとりの行動に染み込んでいない限り、事故なんて簡単に起こってしまう現場だ。そこで働く人達は皆そのことを理解している。そして、自分と仲間を守り、毎日を無事に職務を全うできるように、一人ひとりが気をつけているのだ。
・・・何を当たり前のことを、と思うだろうか?
いや、全然当たり前ではないと思う。というかもし当たり前になっているとしたら、それはすごいことだ。安全は、現場監督者だけでは作れない。そこで働く全員が意識しなければ安全な場は作れないのだ。この共通認識が当たり前になり、そしてそれが日々の行動原理として染み付いている、この状況を維持するというのは簡単なことではない。もちろん監督者が果たす役割は大きい。しかし、一人ひとりの実践が伴わない限りこれは実現不可能なはず。
心理的な方はどうだろう
さて。ここまでは物理的安全性の話だが、実は心理的安全性についてもほとんど同じことなはずじゃないか?というのが、今回考えたいことだ。
物理的安全性が現場監督だけでは維持できないのと同じように、心理的安全性だってマネージャーが四苦八苦しているだけでは実現できない。心理的安全性だって「みんなで作るもの」だ。
建設現場で傍若無人に鉄パイプを振り回す人が一人でもいたら、その現場の物理的安全性は台無しになる。では、チームの中に、愚痴をこぼしてばかりの人、自分を棚に上げて他人を批判する人、陰口を言う人がいたらどうだろう?私には、それは鉄パイプを振り回す行為と対して変わらないインパクトのように感じられる。
自覚があるならまだいいのだけれど、気づいていないこともある。言葉の鉄パイプを振り回しているという自覚がないというのはむしろよくあることかもしれない。つまり、半分くらいは「もしかして自分は鉄パイプを振り回していないだろうか?」と疑っていたほうがいいかもしれない。
自覚する方法の一つは、会話する人・しない人の多寡が生じているかどうか、かもしれない。おそらく、多くの方とは余り話さず、特定の方と多く話している状況だとしたら、もしかしたらその「特定の方」は、「危険物取り扱い免許」を持っている人かもしれない。その場合もちろん「危険物」とは自分のことを意味する。