自由について
「自由」という言葉に昔から弱い。
自由研究、自由帳に胸を躍らせ、
高校は校則が上履きを履くことという一つしかない自由な学校に行き、
(入学一週間後に破る)
今では組織からも半分自由になりつつある。
僕は自由が好きだ
だが自由には責任が付きまとうという。
その通りかもしれないし心がけなくてはいけないが
こんなことを声高に人に指摘する人がいたらダッシュで逃げたい。
必ずその人はあなたの自由を奪うから。
責任は取るものではなく果たすものである。
責任追及をされた際に取るべき態度は反省することでも退くことでもない。状況を冷静に整理し、対処行動することだ。
未来永劫人は自由ではないと考える。
一つ物事を選択することによって
他の選択肢を捨てる事になるからだ。
進学、留学、就職、転職、結婚、移住、起業、退学、退職、離婚、廃業、
自殺…。
歳をとると体の自由が効かなくなる。
目がかすみ、耳が遠くなり、記憶がなくなる。
かつて好きだったものが陳腐に感じる。
人は生まれてから死ぬまでの間、
選択の数だけどんどん自由を束縛されながら生きていくと思う。
だからこそ
なるべく早く自分で選択して人生を自分のコントロール下におく必要がある。
お前が消えて喜ぶものに
お前のオールを任せるな。
という事だ。
ところで
現代の自由の概念は
福沢諭吉が英語のLiberty(勝ちとる自由)やFreedom(持って生まれた自由)
から自由という字をあてたと言われている。
しかし、
そもそも自由とは仏教用語である
「自由」とは「自らに由る」とあるように、自らの意志をよりどころにすることを意味した言葉であり、執着から解き放たれた状態である「解脱」を表すこともあるそうだ。(無我の境地!!)
つまり、仏教由来の「自由」とは外的な要因ではなく、自分の心のあり方を表す。
そう考えると
小さい頃の物欲、
思春期の性欲、食欲、
大学時代の承認欲
に比べたらだんだん無我に近づいていると言っても良いわけで、より自由に近づいているとも言える。(現在は怠惰欲にまみれているわけだが)
とにかく、
人の助言は可能な限り無視して、
自分で選択して生きようということ
に限りますな。
大学院時代の教授に
「人の言う事なんか聞くな」
という金言をいただいたが
今になってみに染みている。