vtuber卯月コウ氏の提唱する「無敵モード最強理論」を考える① 無敵の人のメンタリティ。
ある日、こんな切り抜き動画を見つけた。
「内に秘めた無敵マインドを制御し、「無敵モード」最強説を唱える卯月コウ【にじさんじ/切り抜き】」(https://www.youtube.com/watch?v=nkYZu7x9pCM)
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最近、謎の金髪ショタが、お兄さんボイスで気さくに軽快な雑談配信をしている切り抜き動画がおすすめによく上がってくる。
自分は特にvtuberに興味を持ったことはないので無視していたが、こちらのタイトルとサムネに惹かれて動画を開いた。
そして、この卯月コウ氏の提唱する「無敵モード最強理論」の話を聞いている内に、もしかしたらすごい可能性を秘めた話を聞いているのではないかと思い、自分で勝手にこの「無敵モード最強理論」について考えを深めていこうと思ったのだ。
別になんでもないただの一般人がもうしわけない、だけど勝手に真剣に考えさせてもらう。
まず、彼の提唱する「無敵モード最強理論」とはなんなのか。要約すると、時々ニュースで報道されることも多い、いわゆる無敵の人。主に社会的に困窮し、何一つ失うものがないがために、他者を傷つける凶行に及んでしまう人々。この無敵の人が持つマインドの良い部分だけを抽出し、自らのものにしたら最強なんじゃないか。というのが、この動画で彼が語っている「無敵モード最強理論」だ。
いわゆる無敵の人が起こす事件は、時々ニュースで報道され、その度に社会を騒然とさせる。
他者にないがしろにされ、鬱憤を溜めた彼らは、自分の生まれを恨み、他人を恨み、ついには社会全体を恨むようになる。こうなったのはお前らのせいだ。幸せなやつらを見ていると許せない。と、関係のない人々にまで被害妄想は膨らみ、その鬱憤を晴らすべく、通り魔、放火、目を覆いたくなる凶行へと発展し、社会の表側へと凶気を露わにする。
これは、絶対にあってはならないことだし、許してはいけないことだ。
しかし、今まで社会の見えないところでくすぶっていた彼らが、なりふり構わず凶行へと及ぶ無敵の人へと変貌する、そのエネルギーとは一体どこから湧いてくるのだろうか。
彼ら無敵の人も、好きで凶行に及んだわけでは絶対に無いだろう。他者からないがしろにされ、何もかも失い、溜まりにたまった怒りと憎悪のはけ口を失い。そして視野狭窄により客観視が出来なくなり、自分がこうなってしまった責任が社会にあり、自分は被害者であって正義はこちらにあるのだと考え、社会を悪だと捉えてしまう。
そうして、もはや止むにやまれず、他者へ怒りと憎悪の矛先を向けてしまい、無敵の人事件を起こす結果となってしまう。
じゃなければ、知らない人間を傷つけることなどできない。自分を絶対的に正しいと勘違いするからこその、凶行なのだ。
悪いのは自分であると自らを否定するならば、他人への危害など加えず、自ら命を絶つ結果となるだろう。
要は、圧倒的な破壊衝動が、内へ向くか外へ向くかの違いである。
今まで、自らを否定してくる社会の圧力に耐え、耐えに耐え、そうしてついに鬱憤をせきとめていた、「社会性」という、他者からどう見られるか、社会からどのよう評価(この場合は、傷害致死に及んだことによる重い社会的制裁)を下されるかを考えブレーキを掛ける門が決壊し、道徳心をも突破してその破壊衝動を表に出してしまう。
長年、受動的に社会の圧力に耐えていた怒りが、ついに破壊衝動へと変わり、社会に対する「能動的」な働きかけを、他者への傷害という形で果たしてしまう。
そう、この「能動的」な部分こそが、「無敵モード最強理論」の核となる重要なファクターなのだ。
社会的な制限(他人を傷つけてはいけないという道徳心、そしてそんなことをしたら捕まるという社会的制裁)という堅牢な柵を突破し、その積極性を持ってして行動につなげる。その能動的な精神こそ、いわゆる無敵の人が持つマインドの、良い部分なのである。
卯月コウ氏も動画内で引き合いに出していた「鈍感力」が、これに勝てない所がまさにこれ。「能動性」である。渡辺淳一氏が提唱する「鈍感力」は、読んで字のごとく、外的な圧力に対して鈍感でいられる力のこと。しかし、鈍感であるというのは、正直、先天的な要素がほとんどを占めると思う。受動的に外的な圧力を受け取って、動じずにいられるには、根本的な性格が大きく影響するのではなかろうか(すみません、「鈍感力」本著は前に少し読んだだけなので、間違ってるかもです)。
それに比べ、この「無敵モード」では、能動的な働きかけを主とする。こちらから、主導的に物事に介入、もしくは物事を主導的に認知することで、建設的な思考を作り出すのである。
しかし、無敵の人にはそのマインドの良い部分を、他者への害悪という圧倒的に間違ったベクトルへと使ってしまう。
それは、社会的な評価を、受動的に受け止めてしまっているから。私はそう考える。
本当に酷なことを言うが。私たちが普段、何かのはずみで他者からひどい精神的なダメージを受けたとする。もしくは、就活を失敗などして、社会から残酷な評価を受けたとする。
ここで、精神的にダメージを受けてしまう原因は、私たちの価値観がその評価を受動的に、受け身の態度で受けとってしまうからなのである。
簡単に揺らいでしまう自らの価値観ゆえ、社会の価値基準を迎合し、自分を相手の土俵に立たせてしまい、まともに相撲を取ってしまっている。
私たちは、自分の土俵を作り、そこで社会と相撲を取らなくてはならない。もう、領域展開みたいなもん。ほぼ呪術廻戦である。
いわゆる無敵の人というのも、自らの土俵作りを怠らず、世間や他者からの評価と、自分の土俵で相撲をとっていれば、理論上、そんな世間の評価など気にせず、深い憎しみに繋がることもなかったのではないだろうか。
…分かっている。これは綺麗ごとだ。
私に、本当のどん底を経験したことはないし、誰かに対して、社会に対して、壊れるほどの憎しみを感じたことはない。
私に彼らの気持ちを推し測ることはできない。
それに、人間という生き物は、必ず外界からの影響を受ける生き物だ。私たちは、絶えず他者からの、社会という環境からの影響を鋭敏に感じ取って生きている。社会の評価を気にするな。気にせず積極的に行動しろというのは、どだい無理。そんなことができるのは、本当のメンタルお化けだけだ。
しかし、この「無敵モード最強理論」。綺麗ごとだと切り捨てるには、あまりのも勿体なさすぎる。
じゃあ、こう考えればどうだろうか。私たちに無理なことを、本当のメンタルお化けたちはどうやって達成しているのだろうか。
そのメンタルお化けたちの持つ、「無敵モード」に由来する思考を考察すれば、豆腐メンタルの我々が目指せそうなものも導くことが出来るのではないだろうか。
次回は、「無敵モード」を実践的な考察を交えて、論じていこうと思う。
二日かけてここまで書いたら、なんだかだいぶ満足してしまった。もしかしたら次回はないかもしれない。おやすみ。