【短編】レミング
「君がいないと、寂しいよ」
行き交う雑踏に紛れて、あの日の君の声が聞こえた。冬の町は静かだ、だなんて誰が言ったのか。今日もこの町には『音』がある。賑やかで、活気があって、大嫌いだ。
僕は今日も、君の声だけを探している。
大通りを抜け、静寂へと向かって歩く。賑やかな幸せを置き去りにする感覚が、僕はずっと好きだった。もし僕だけしかいない世界になったなら、きっと僕の希死念慮は消えてなくなるだろう。僕以外の全てが、僕を嫌っている、追い詰めている。そんなことは、とうの昔に知っていたことだった。
僕の脇腹には、剃刀でつけた傷がある。あの日の痛みは消えても、あの血の赤さと虚しさだけは、今もすぐそばで僕を嗤っている。
「お前は今日も死に損なったな」と、僕にしがみついて嗤っている。
そんな世界に、君が現れた。
生きることに意味を見つけられた、僕の希望。
さよならも言わず去った、愛しい人。
三が日を終え、人影もまばらな神社の境内で、僕は空を見た。
真綿のような雪。焚き上げられた願いの骸。僕ももうすぐそこへ行く。
君のいない世界に、何の希望もないのだから。
「君がいないと、寂しいよ」
呟いたのは僕だった。君のいない世界なら、もういらない。ここに僕が生きる意味は、欠片一つさえない。
僕が生きたのは、ただ死に向かうためだった。さながらレミングのように、僕はただ死へと向かっていた。
君と生きた時間だけが、僕を生き物にしてくれた。
君じゃない誰かになんて、愛されたくない。
もう誰も、僕に触れないでくれ。
僕を見つけないでくれ。
僕はただ、消えたかった。あの日の赤さと虚しさ。それを知らない誰かに、もう僕は見つけられない。
今日でさよならだ、何もかも。
「選ぼう、それを」
僕はそう呟いて、神社を去ろうとした。
卑しい僕の血で、ここを汚してしまってはいけないから。
「…おい、あんた」
掃除をしていた人に呼び止められる。坊主頭で小柄な老人。その割に、ひどく威厳のある声だった。
「なん、ですか」
「あんたのしようとしてること、彼女は悲しんでいるぞ」
「…は?」
「その人は今もな、あんたの脇腹に触れておるわ。泣きながら、あんたを見とる」
僕はそっと脇腹に触れた。少しだけ、君のしていた香水の匂いを感じたのは、きっと気のせいだろう。
「生きろ。死を選ぼうとする心と、ともに生きろ。そうして、彼女に会いに行け。爺になるまで生きて、それからでも遅くない」
そう言うと老人は去っていった。
僕は、彼の背中に深く頭を下げた。
後日改めてその神社に行ったところ、宮司の方と話ができた。あの老人のことを尋ねたが、そんな人物はいないということだった。
脇腹の傷を撫でながら、僕は今も思い出す。
大好きだった君の笑顔と、不思議な老人の言葉を。
了
あとがき
家族にも言ったことがないが、僕の脇腹には剃刀でつけた傷がある。ほんの数センチの、浅い傷。その痕を見ていて、この小説を思いついた。
息をするのも苦しい世の中だ。あの日、傷をつけた痛みよりもはるかに苦しいものを、みんなが胸に抱えて生きている。
生きよう。
それだけを伝えたかった。今日はボケない。明日はふざけるだろうから、今日だけは真面目に伝えたい。
生きよう。僕らみんなで。