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イチロー会見の感想。自分のレベル上げについて。

イチローが引退しましたね。僕は小学〜中学の野球部時代に1ミリも良い思い出がないというのもあり、プロ野球もメジャーリーグもまったく観ないのですが、イチローの引退会見はさすがにちょろっと見ました。深そうなことばを連発してましたね。ということでイチローの引退会見を見て考えたことを書きます。

記憶に残ったことばは「本当の自分に出会う」「自分の限界を超える」「量りはつねに自分のなかにある」とかでした。とにかく真摯に「自分」を探求してるひとなんだなと思いました。
最多安打などのさまざまな記録更新には大きな意味はないとも言っていたし、他人よりがんばったなんてこともなく、またそれは重要じゃなくて、あくまで「自分」なりにやれたことが誇りだ、みたいに言ってたと記憶してます。そしてトレーニングは明日以降も続けてると思うとも言ってました。

「本当の自分に出会う」ってのはなんかインド哲学みたいだなと思いました。インド伝統思想では"修行"によってほんとうの自分に出会うことが真理を体得することであり尊いこと(ほんとうの自分は世界の根源と同一だとさとる=梵我一如)って本で読みました。日本の座禅の有名人の道元というひとの言葉にも「自己を探求することがそのまま世界の真理の探求なんだ」みたいなのあったかと思います。

イチローの言う、自分なりの努力によって出会える気がする「ほんとうの自分」というのも、イチロー的に世界の真理じゃないけれどもなんか普遍的価値みたいなもんに通じてると思えるからこそ、あそこまで毎日毎日とてつもなく集中して探求を継続できた(し今後もやるらしい)んだろうなと思ったりしました。そんな意味でイチローはある意味すごい立派な"修行者"だなと思ったりしました。

現代は人生なんて暇つぶしだ的なニヒリズム(虚無主義)が強い時代だと聞きます。なんででしょうか。こないだEテレで、もともと西洋哲学において真理とは体得するものだったのが、デカルトというひと以降は真理はそこにあるもの、ことばで他人に説明して完結するものに変わったのだ、というようなことを言ってました。体得するってのは、ひとが主体的にレベルアップしてはじめて真理が見えるみたいなことですよね。まあ、さっきのインド哲学とかその流れを引く座禅でも、もちろん真理は体得するものです。デカルトさんは近代科学の原点と言われてて数学の座標を発案したひととしても有名ですが、まあそういった科学的世界観のみが人々の信じられるものになってしまうと、自己のレベルあげとかのモチベーションも湧いてきづらくなるのかなと思ったりしました。そうして人間の豊かさみたいなもんもないがしろになる傾向にあるんじゃないかなとも思ったりしました。

イチローのいうような生き方には上に述べたような意味で惹かれるところあるなぁと思いました。僕は高校から心療内科通いの抗不安薬服用マンで、日々よくわからない不安の対処とかそういう次元のことで手一杯であって、イチローみたく具体的になにかを成し遂げることはできないのでしょう。ただイチローが引退会見で話したのは、他人とくらべてとか記録とかではなく、あくまで自分自身のレベルアップのことなので、自分みたいな人間が惹かれて見習おうと思うのもぜんぜんおっけーなのかなとか思いながら、このような汚い文章を書きました。
#イチロー #引退会見 #修行 #梵我一如 #座禅 #道元 #心療内科 #抗不安薬

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