#10 “還暦”同窓会、人生ひとまわりで新たな一歩
■コロナ禍の開催は、着席スタイルで静かにスタート
11月中旬に高校時代の同窓会が開催され、多くの面々と卒業後初の再会を果たしました。母校は自由な校風で知られる神奈川の県立高校で、ひと学年の生徒数は450名。果たして何人出席するのかなと思いながら会場へ向かいました。受付で迎えてくれた幹事のひとりが、「還暦で人生ひとまわり。偉くなった人もそうでない人もリセットしてゼロから始めよう!という会だから。楽しんでいってね」と名札と冊子を渡してくれました。名札には、卒業アルバムの私の顔写真、1年から3年までのクラス、所属の部活動が記されています。首からかけた名札を見れば、顔は思い出せなくても何年の時のクラスメイトかがわかります。声をかけてくれた幹事は、2年生の時のクラスメイトで、理数系にめちゃくちゃ強かったことから数ⅡBの計算問題をよく教えてもらったことを思い出しました。今は小学校の校長先生をしているとのこと、頼りがいのある雰囲気は当時と変わりません。
受付で渡された冊子はA4サイズ16ページで丁寧な編集が施され、式次第、幹事長挨拶、サークル活動の案内、事前アンケートに寄せられた近況報告、裏表紙には校歌が記されています。「家族や友人夫婦とゴルフや旅行に行くのを趣味にしています」「最近山歩きを始めました」「世界中を旅行したいです」「お城巡りをしています。国宝5城はクリアしました!」など、前向きなメッセージからは日々を謳歌している様子が目に浮かびます。一方、「入退院を繰り返しています。元気になりたいです」「両親の介護で当日は参加できません」など、欠席のメンバーのメッセージを読むと、自身の健康、親の介護は、共通の課題だと改めて感じました。
会場となったホテルの宴会場には、6人がけの丸テーブルが20卓並び、まずは開会の挨拶と乾杯!そして着席での食事がスタート。本来なら立食形式で自由にいろいろな人と話せるスタイルが主流ですが、ここは幹事団の苦渋の決断だったようです。同じテーブルの6人で互いの近況を報告し合っていると、少しずつ記憶が蘇ってきます。隣の席の女性は2年生のクラスメイトで、「歯医者を開業して30年目。ひとり者だから後継ぎもいないし、辞め時を考え中」と話します。私が3月に退職したことを伝えると、「いいなぁ、自営業は定年がないから、悩ましい!本当はもう辞めてゆっくりしたいよ」と。歯医者をたたむには手続きがかなり面倒らしく、退職届1枚で会社とサヨナラした私にはなかなか理解しにくい事情です。各テーブルでのおしゃべりは、デザートタイムまで続きました。
■ピンクレディー、ハマトラ・・・情報発信の主役はテレビと雑誌
私たちが高校に入学したのは1978年春。映画「サタデー・ナイト・フィーバー」の公開で空前のディスコブームが到来した年でした。原宿には竹の子族が登場し、歩行者天国でディスコサウンドに合わせて「ステップダンス」を踊る若者がニュースで流れましたが、この目でみたことはありません。邦楽ヒットチャートはピンクレディーの全盛期。「ザ・ベストテン」や「夜のヒットスタジオ」など、テレビで2人の姿を見ない日はありませんでした。文化祭や体育祭では「UFO」や「サウスポー」に合わせて歌って踊る女子が何組もいました。一方で、人気絶頂だったキャンディーズが「普通の女の子に戻りたい」という名言を残して突然引退。後楽園球場で行われた解散コンサートの模様は、今でも目に焼きついています。
ファッションは、神戸発のニュートラと横浜発のハマトラが大ブーム。ハマトラは横浜・元町界隈で流行したトラディショナル・スタイルのファッションで横浜トラッドの略称です。『an・an』『non-no』『JJ』などの女性ファッション雑誌がたびたび「ハマトラ」特集を組み、それを横浜駅近くの本屋で立ち読みするのが何となく習慣になっていました。休日には「フクゾーのポロシャツ」「キタムラのバッグ」「ミハマのローファー」などをチェックしに元町へ足を運び、帰りに「ポンパドウル」で焼き立てのパンを買うのがいつしか楽しみに。高校生の私にとって元町は、ちょっとした非日常を味わえる場所だったようです。私服の着用が許された文化祭では、元町で買ったハマトラっぽい装いに、ややドキドキしながら登校したのを覚えています。
当時読んだ本で最も心に残っているのが、中沢けい氏の著書『海を感じる時』(講談社)です。「群像新人賞受賞作品。中沢けい18歳のデビュー作」というフレーズを本屋で目にして手にとったのだと思います。高校1年生の女性の不安定で多感な日常を描いた小説で、官能的な表現も多分にあり「18歳でコレを書くか!」という驚きと戸惑いを覚えました。細かい表現は忘れてしまいましたが、主人公が「社会学を学んでみたい」と語る場面があり、なぜか私の興味も社会学へ。のちに文学部で社会学を専攻するきっかけになったのですから不思議なものです。『海を感じる時』は2014年に映画化されましたが、そちらはまだみていません。
■40年ぶりの校歌に、当時のシーンがフラッシュバック
さて、デザートタイムが終わると、司会者からようやく「移動」のお許しが出て、会場内は一気に熱を帯びてきます。長らく会っていなかった友人を見つけて、まずはそれぞれの近況を報告。完全に仕事を辞めた人、65歳まで働くことを選択した人、早期退職して新たな仕事に就いた人、お孫ちゃんの世話で毎日忙しい人、一緒に住むお母さまのケアに翻弄されている人、暮らし方は実に様々。それぞれと話せる時間はごくわずかなので、なぜそうなったのかまでを深く知ることはできませんが、ずいぶん多くの人と話せたように思います。この日のために帰国した海外勤務の人や、北海道や九州など遠方から参加した人もいて、出席者116名が会場内で離合集散を繰り返し、次第にお開きの時間が近づいてきました。
同窓会幹事長の挨拶が始まると、会場は一転静寂に包まれます。「開催を決めた直後にコロナの事態となり、開催するべきか否かから考え直すことになりました」「還暦は1つの節目。来し方を振り返り、新たな1歩を踏み出したい。そんな時に懐かしい仲間と楽しい時を過ごしたい。やはり同窓会を開催しようと決断しました」「派手な企画を立てるのはやめにし、集まること、情報交換の一助になることを目的に開催することにしました」という言葉からは様々な逡巡が感じられ、当日を迎えるまでのご苦労に頭が下がる思いでした。幹事長への労いの拍手が続く中、還暦を迎えたこの年に再び集えた幸せを静かに噛み締めていました。
幹事長挨拶が終わると全員起立!で校歌斉唱。流れてきた音源には、応援団のかけ声も入っていて、マラソン大会や野球部の県大会などがフラッシュバック!卒業式以来の校歌斉唱に、40年以上眠っていた母校愛がようやく蘇ってきた感じです。最後は全員での記念撮影をして、名残を惜しみつつ散会となりました。LINEグループの「同窓会スナップ写真の会」には、全体写真はもちろんのこと、各人が撮影した写真が次々とアップされています。最近は、欠席だった人の近況を伝える写真もアップされるようになり、「野毛で飲んでま~す」「年末には第九を歌いますよ!」など、LINEグループへの参加人数も増え続けています。正直なところ、写真だけでは「誰だっけ?」という人もいて、卒業アルバムの顔写真と照合しながら記憶を辿るのもまた楽しい時間です。次の同窓会開催は5年後。再び元気で集えることを願いつつ、それぞれの帰路につきました。この冬はイルミネーションの中で3年ぶりの再会を果たしている人も多いはず。やっぱり「会う」っていいなあと思いつつ、いまだに余韻に浸っています。