我が家の「家出」事情
家出について、身近な人が考え向き合い、言葉を交わしている。いいぞいいぞと思いながら、自分はどういう立ち位置でいいぞと言っているのか。
この夏は総務の仕事の宿題もなく子どもと遊ぶ時間や、精神的な余裕があり珍しく読書もしたし、Spotifyでラジオなんかも聴いた。Spotifyで「care-radio(ケアラジ)」というネットラジオを聴いた。『彼岸の図書館』や『手づくりアジール』という本の著者の青木真兵さんがゲストの会だった。
https://open.spotify.com/episode/3zrLsHcxxgYQe5O39dNRqu...
社会との折り合いと、社会から逃げ出す術や意味について、特に後者について話が展開していて面白かった。積読していた『手づくりアジール』を開いてみたら、『男はつらいよ』の寅さんの「家出」について冒頭の章で紹介されていた。
昨年までは妻と子二人には群馬の実家へ「家出」してもらい、僕も昼間は職場へ「家出」し、仕事をしていた。それぞれ家出と仮定して共通して見えてきたのは、半分選択しているが、もう半分は仕方がなしに「家を出て」いることだ。お互いに「家出」をすると、夏休み中の福祉施設は当たり前だけど誰もいないので僕は必然的に自分の時間というものも増え、仕事はあるが、家事や子どもの世話などが必要のない時間ができる。
妻は子どもたちがセットにはなるが、実家にいけばジジババが子たちを引き受けてくれるし暴れまわる子たちを怒ることも減る。父母それぞれ様々な事情や社会との関わりがあって子育てもある、ということ自体が、古い価値観からも新しいトレンドからも合理性の中で見えづらくなっている気がする。子どもたちにとって、父母が正しくいる、ことよりもどう遊べるかのほうが大事だ。
そういう意味で子どもがジジババの無限に溢れる愛情に触れ、カブトムシを毎朝取りに出かけ、永遠に同じおしゃべりする3歳児と1時間も会話する時間は、この先、計り知れないものを子たちに与え、そしてジジババたちとってもそうだと思う。僕の「家出」している/させている後ろめたさを他所に。.
ちなみに、今年はジジババに我が家へ「家出」してきてもらっている😂