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日記230823

妻が積読している本を読んでみている。

単行本のような装丁だけど、「ちいさい・おおきい・よわい・つよい」という定期刊行物の雑誌のような本だ。どこで買ってきたんだろう?まず試しに『「過敏さ・繊細さ」の解体新書』を読んだ。熊谷晋一郎さんが言う、「過敏さ・繊細さ」が示すナラティブな「あるある話」によるコミュニティがフックに少数派のネットワークが広がり、自分たちの経験を意味づけ独自の体系をつくることでトラウマ化した経験が薄まるのでは、という話はリベルテの柳町アトリエのダジャレコミュニティを思い出した。HSPや「繊細さん」を個人の能力かのような扱いではなくて、身体や感覚、内蔵、免疫などから考え、区別やカテゴリー化ではなくて、社会や新しいコミュニティの兆しへ繋げていくような構成で、さらに勉強になった。


妻の積読2冊目『「働く母」の子育て』を読書中。冒頭に紹介されている「働く母」のアンケートの一つが、まさしく我が家の話過ぎて、知らぬ間に妻が投稿しているのかと思った。

まだ最初の方しか読めていないけど、特集最初の掲載されている社会学者貴戸理恵さんによる文章「賃金労働者とケアの責任者、ふたつの世界を往復する日々のリアリティ」は短い文章だったけど、とても共感した。「働くお母さん」を社会構造から語るときに「こぼれ落ちる日々のリアリティ」から考えたいと始まり、賃金労働(働く)お母さん(ケア責任者のジェンダー化)を、生まれ老いる人間の営みにケア責任を負う働き手は男性でも性的マイノリティであっても「働くお母さん」の地続きにいると考える。自分のパートになるだろう父らしさとか、良き父とか、僕は内面化できないから、なかなか苦しいんだけど、「働くお父さん」としては僕はだいぶ「働くお母さん」に近づけるんじゃないか。


未来の父親・母親像を考えることは難しいけど、もう少し目の前にいる「お母さん」のことには近づけるんじゃないか、とちょっとだけ自分に期待しつつ読んでいる。.子たちからすると父と母は明確に区別され、僕が「お母さんだよ」というと、息子も娘も機嫌が悪いとまじで「ちがうーーー!お父さんはお母さんじゃなーい!!!」と泣いて怒る。子たちにとってはお母さんの代わりにはならないが、何とかしてあげたいなという気持ちで父親として遊ぶということはできる。唯一、種別さえも越えて飼い猫はぼくを「お母さん」と思っているようで、いつも僕が見えるところに必ずいる。今も足元のかごに収まって寝ている。

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