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フェースブック人間

写真は、愛猫マエストロです。
三年半前にシェルターから引き取りました。
このシェルターで出会った人々から、フェースブックでの人格まで、思ったことを綴った、2016年終わりに書いた文章です。

夏まで暮らしていた本牧は、野良猫がいました。
うちにも遊びに来ていた三毛猫のミー君。飼いたかったけれど、そのままお別れの時が来てしまった。
だから、私たちもフランスに帰ったら猫飼おうね、そしてそのときは、シェルターから貰おうね、と決めていました。

ベルサイユに落ち着いて早3カ月経ち、「そろそろ飼おうか」と、最寄りのシェルターを探してみたら、なんと、うちから歩いて5分のところにあるではないですか!

子猿たちも大はしゃぎ
ではでは、と訪れたのは3,4週間ほど前のこと。
このシェルター、普通の一軒家です。そこに、猫が2,30匹はいます。
子猫のシーズンは終わっていたそうですが、偶然、私達が行ったときに届けられた子猫がいて、それが、このマエストロだったのです。

シェルターでは、病気の有無をチェックし、ワクチン、避妊手術をして、あと耳に認識番号をタトゥーして引き渡してくれます。性格チェックもされていて、家猫に向かないと判断した場合は、養子に出さず生涯シェルターで飼うとのこと。

契約書には、「15日以内に、病気が見つかったり、性格的に問題が発覚したり、諸事情で飼えなくなった場合はこちらで再度引き取ります。その際は、諸費用として頂いた150ユーロもお返しします」とある。
良心的な制度ではないですか。感心しました。

シェルターの職員(?)は無償ボランティアのようです。
皆さん、猫が大好きで、それぞれの猫の性格を把握し、愛情注いでいて素晴らしいこと!
……でもどう見ても、みんなちょっと癖がある。

まず、シェルター長らしき初老のマダム。
前髪パツンと揃えた赤毛ボブカットに、ルージュがビシッと引かれ、ファッションも独特です。往年のソニアリキエル風。
忙しそうにああだこうだと動いていらっしゃる割りには、事務手続きが進まない。ペンがない、と探し、用紙は「あったあった」と喜ぶも束の間、「ああ、これは違う違う」。漸く見つけると、今度はさっき見つけたペンが消えていて「C'est pas possible!」と大嘆き。

猫を見せてくれた猫目の若いマドモアゼルは、キャットウーマンがごとく美しい。
が、どう見ても社交性は低し。失礼なことは一切ないんだけど、もう自分の世界に住んでいる感じです。
3度ほどシェルターに行きましたのですが、毎回、咳込んでて、それなのにずっとたばこを吸っているし、

その他の人も、内気なジャージ姿のオジサン(だけど、私達の質問にシェルター長が一瞬間を置くと、すかさずバシッと答え、次の瞬間、シュッと口を噤む)とか、猫の世話に情熱かけているブルドーザーのように猛烈なオバサンとか、みんな、一般社会ではちょっと浮いていそうな人達でした。

で、思いました。
「私、こういう人達、好きだなぁ」
と。

少し前に人格障害に関する本を読みました。
この本読んでいると「障害」とまで行かなくとも、人格障害の傾向がある人というのは、自分を含め、とても、とても多いと思いました。

著者曰く、人格障害は、母親と関係が大きく影響しているそうです。父親の影響は二次的らしい。

母親との関係って千差万別。
子育てって難しいですよね。
突き放すべきところで密になり過ぎたり、守ってあげるべきところでそうできないこと、あるある。
本によると、そういう経験が子供の人格形成に影響を与えるらしい。
そう考えると、人格的に、「無傷で普通で健全」っていうのは希有なことだと思うのです。

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さて、話がズレるようですが、フェースブック。
どんなもの何だろうと、深く考えずに「とりあえず」使い始めて何年でしょう。気軽に投稿できるし、遠くに住む友・家族の様子がわかるから楽しく使っています。

私の使い方……フェースブックは実際に知っている人達と繋がっているので、割と気をつけて書き込んでいます。

フェースブックには、実社会同様に、フェースブック独特のマナーがあるように感じます。外国語では別のマナーがあるのでしょうが、日本語においては、日本人的な常識、気配りが求められてるように感じてしまうのです。

公共の場だから、楽しいこと、笑えること、他の方にも有意義だと思われることをシェアする。
不快な言葉・画像は載せない。
余り尖ったことを載せて驚かれるのも何だし、
皆さんもお忙しいだろうから手短な文を心がけ、
内輪ウケみたいなことは載せない、
などなど。

コメントも然り。公に残るものだから、ネガティブなことは書きたくない、軽く、明るいコメントを心がける。
これは私の面倒くさがり屋で臆病な性格ゆえですが、ディベートになりそうなことも、後で言質とられそうだから書かない。

で、気づくと、フェースブックには行儀がよく、健全で、ちょっとつまらない自分がいました。

そして、再び話が飛びますが、今年の芥川賞を受賞した「コンビニ人間」。

「コンビニ人間」の主人公は、幼い頃より自閉的で、コミュニケーションが変。自分が他の人と違っていることを自覚し、迷惑かけないように無口に生きています。
ふとバイトを始めたコンビニでは、マニュアル通りに動けば、浮くことなく、皆と同じように振る舞えることが分かり、これぞ我が生きる道! と徹底して働いているうちにコンビニ人間になってしまった!
「ちょっと変だと排除される社会だから、こうしているかぎり私は安全」
……そういう話でした。

うんうん、日本ってそういうところある。
物語に対する感動などはなかったけれど、コンビニ人間は今の日本の一面を表している、と、その鋭い捉え方に感心しました。

これと、先ほどのフェースブック現象をくっつけると、最近のフェースブック上の私はフェースブック人間化していると言えます。
猫シェルターの人と比べると、何とも個性なく人間味に欠けるキャラクター。
でもこれは私の一部であって、本当の私は、もっと味がある(=変な)人です。

誰かと出会ったとき、また別れるときなど、「フェースブックやってる? じゃ、そこで!」と、まるでフェースブックに行けばその人がいる、その人のことがわかるような気がしていましたが、ここに来て、漸くフェースブックの限界が見えてきました。

さっきから脱線ばかりしていますが、ダメ押し。
2年間の日本滞在で唯一みた邦画は、「愛を積むひと」。
横浜そごうの北海道フェアで、夫が、美瑛で作られた本格チーズを目の当たりに興奮し、恐ろしい勢いで買い込んだら、その御礼として、同村で撮られたこの映画の試写会のチケットをくれたという……。マラソン帰りの旧友と観にいったっけな。
原作はエドワード・ムーニー・Jrの「石を積むひと」です。

話は、妻に先立たれた高潔なところがある偏屈じいさんが、妻の遺言通りに、家の周りの石塀を積み上げる。その過程で不良などとも関わりができる。そして気づく。この石塀も、形のよい石だけで作られたら、もろくてつまらないものになる。へんてこな石、太っちょな石、尖った石、こういうのを組み合わせるからこそ、力強く、個性がある塀ができる。人の社会も同じじゃないか。もっと許容しながら生きよう、というもの。

変わった人に会ったり、自分が何か世間と足並みがずれちゃってるよなぁ、と感じるときなど、このメッセージが思い出され、「いいのいいの!」と励まされています。
実在しないサイバースペースのフェースブック人間より、石ころでいる方がいいわ!

お、長くなりましたね!これが私の悪い癖。
ご静聴ありがとうございました。
また行きます!

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