日本史: 飛鳥時代 ④「日本のはじまり」
通訳案内士の試験勉強のための、まとめノートです。
古代日本史最大の戦いが起こり、戦乱の後、さらなる天皇中心の国家の基盤として、貨幣の統一、歴史書、そして、律令の整備がされていきました。
天武天皇の御代
672年 天智天皇の没後、皇位継承を争った古代最大の内乱、「壬申の乱」が起こりました。天智天皇の弟「大海人皇子」が、天智天皇の実子である「大友皇子」に対して兵を挙げた。
大海人皇子は、天智天皇が崩御する前に、大友皇子を皇太子として推挙し、自らは出家して吉野宮に下りました。しかし、それを飜えして、兵を挙げたのである。この挙兵となった経緯は不明であり、諸説あります。
大海人皇子は、美濃に兵を集め、琵琶湖を北回りする軍と南回りする軍に分けて、大津宮に進軍した。「瀬田橋」の戦いで、近江朝廷軍が大敗すると、大友皇子が自決し乱は収束した。
こぼれ話 ①
日本書紀によると、大友皇子は、瀬田橋の戦いの後、自害したとされています。しかし、各地に大友皇子は逃げ延びてたという伝説が残っています。愛知県岡崎市、神奈川県伊勢原市、千葉県君津市には、大友皇子の墓とされている場所があり、地元の人々によって丁寧に祀られています。
673年 壬申の乱に勝利した大海人皇子は、「天武」天皇として即位しました。そして、都を大津から再び飛鳥地「飛鳥浄御原」に遷都を行いました。
天武天皇は自ら政務を行うことで、権力を掌握しました。この時代は、日本の歴史上もっとも天皇が力を持った時代でもありました。また、天武天皇は、「天皇」という称号を初めて使い、「日本」を国号とした最初の天皇とも言われています。
この時代に、全国を政治の中央である「畿内」と、中央から伸びる幹線道路を元に「七道」という広域行政区域に区分が行われました。七道の名前は、畿内を中心につけられています。例えば東海道は、その当時の中心であった奈良から見て東側にある地域なため、東という方角がその名前についています。
683年 日本書紀によれば、天武天皇の命により、銀銭の代わりになる銅銭が造られたとされています。この貨幣は、「富本銭」と呼ばれています。その柄には「富本」という漢字とともに、古代中国の天文学で重要とされれていた「七曜星」が図柄として刻まれています。1999年に、奈良飛鳥池遺跡で、富本銭33枚と、その鋳型が発見され、「最古の貨幣発見」などと大きなニュースとなりました。
白鳳文化
このころに華咲いた文化を、「白鳳」文化といいます。飛鳥時代に取り入れられた仏教文化が隆盛し、唐の文化の影響をうけつつも、日本的な文化に変容をし始める時代の文化です。
678年 乙巳の変で中大兄皇子に協力した、蘇我倉山田石川麻呂(朝鮮使の上表文を読み上げるときに震えて、蘇我入鹿に不審がられた)を供養して、その命日に「山田寺」で丈六仏像が開眼されました。この仏像は、白鳳文化を代表する仏像として、「山田寺仏頭」と呼ばれています。現在は、側頭部が破損した頭部だけが残っていますが、その美しい顔立ちから「白鳳の貴公子」と呼ばれ国宝に指定されています。この後、この仏像は「興福寺」の僧兵に奪われ、その寺の所有となります。
680年 このころに建てられた代表的な寺に「薬師寺」があります。天武天皇が鵜野讃良皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して建立しました。
薬師寺の「東塔」は、国宝に指定されており、創建当初から唯一現存する建造物です。三重塔ですが、屋根が6つあり、この屋根の大小がおりなすバランスはとても美しく、 「凍れる音楽」とも呼ばれています。塔上部の水煙は、他の塔のものと比べて実にデザイン性に富み美しさが際立っています。笛を吹きながら踊る奏楽天人、花籠を捧げる天人、蓮のつぼみを捧げ持ちながら降りてくる天人が飾られています。
ご本尊は、「薬師三尊像」で、中央の「薬師如来」、左右の「日光菩薩」、「月光菩薩」と共に国宝に指定されています。また、薬師如来の台座も国宝に指定されており、ギリシャ由来の葡萄唐草文様、ペルシャの蓮華文様が描かれ、国際色豊かなデザインとなっています。四方には、翼を大きく広げた朱雀、胴長に描かれた白虎、丸く円をかたどる玄武、翼を持った青龍の姿は、高松塚古墳やキトラ古墳の装飾壁画とも類似しており、 白鳳時代の文化を今に伝えています。
奈良県飛鳥村で発見された古墳で、石室の赤、黄、緑など色彩鮮やかな女性四人が描かれていることで有名な「高松塚古墳」もこの時代のものです。この女性たちは「飛鳥美人」のニックネームで知られています。この壁面は国宝に指定されています。
その近くには、四神の青龍、白虎、朱雀、玄武の壁画で有名な「キトラ(亀虎)古墳」もあります。この壁面は国宝に指定されています。
法隆寺にある壁画、「金剛堂壁画」はアジア古代仏教画、また、白鳳文化を代表する作品です。法隆寺は7世紀前半に建立されましたが、この壁画は7世紀後半に描かれたものです。残念なことに、1949年に火災に会い、一部の壁画は焼損してしまいました。この事件により、文化財の重要性が再認識され、「文化財保護法」が制定された。そして、この火災があった1月26日を「文化財防火デー」とされた。
万葉集で有名で歌の聖とも称される「柿本人麻呂」は、万葉集が成立した平安時代ではなく、この時代の人物です。持統天皇の吉野行幸や軽皇子(天武天皇)の遊猟に随行したときの歌が万葉集にしるされています。
「見れど飽かぬ 吉野の河の 常滑の 絶ゆることなく また還り見む」
(柿本人麻呂)
見飽きることのない 吉野川がいつも滑らかなように 絶えることなく くり返し見よう
日本書紀と古事記
日本初の歴史書、「日本書紀」と「古事記」の編纂が「天武天皇」の命により始められました。しかし、完成したのは、天武天皇が亡くなった後のことになります。
古事記は、上、中、下の3巻からなり、「稗田阿礼」に口述させた内容を「太安万侶」によって執記、編纂し、712年に元明天皇に献上されました。古事記は、天皇家を正当化するために書かれたものであるとされています。
日本書紀は、30巻で構成されており、天地の始まりなどについて書かれている神話(神代)から第41代持統天皇まで、それぞれの天皇がおこなった事績が年代順に記載されています。天武天皇の皇子、「舎人親王」らによって720年に成立した。日本書紀は、日本の正史を編纂するという目的で書かれたとされています。
藤原不比等と大宝律令
686年 天武天皇は病気のために崩御、天武天皇の皇后であった「持統」天皇が即位しました。
694年 日本初の唐の都城を模し、碁盤の目状に道路を整備した「藤原京」に遷都しました。
697年 持統天皇は、15歳の軽皇子に譲位し「文武」天皇が誕生しました。持統は初の太上天皇(上皇)となった。
このころ、壬申の乱で敗れた大友皇子側とみなされていた、中臣鎌足の息子である「藤原不比等」が頭角を現しはじめまし、政治家としての才能を発揮していきました。また、次の時代で権勢を振るうことになる「藤原四兄弟」が生まれた時期でもあります。
文武天皇は、即位後すぐに不比等の娘である宮古を后として迎えました。これにより、藤原氏と天皇は外戚関係となりました。そして二人の間に、首皇子(後の「聖武」天皇)が生まれまれることになります。
こぼれ話 ②
藤原不比等は、平安時代初期に成立した「竹取物語」のかぐや姫に求婚する5人の公達の1人、車持皇子のモデルだとされています。これは、不比等の母が車持氏出身ということから来ています。物語の中で、車持皇子は「蓬莱の玉の枝」を持ってくるようにかぐや姫に言われました。困った皇子は、職人に造らせますが、代金を払わなかったため、かぐや姫に蓬莱の玉の枝を見せているときに、代金を請求しにきた職人たちがやってきて偽物と発覚してしましました。
701年 国家を一つとして、天皇を中心とた中央集権をさらに進めるために、日本初の律令である「大宝律令」が制定され、全国に施行が命じられました。「唐」の律令を参考に日本の事情に合わせて、「藤原不比等」や天武天皇の子である「刑部親王(忍壁)」らを中心として編纂されたものです。
「律」は現在の刑法にあたるもので、「令」は行政法、民法にあたるものです。また、二官八省(神祇官、太政官 - 中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省)の官僚機構ができあがりました。
707年 文武天皇が病気のため25歳で崩御、その後、その母である「元明」天皇が即位しました。
708年 埼玉県秩父市黒谷から、和銅(にきあかがね:純度が高い自然銅)が、産出されたことを記念して年号が和銅と改められました。そして、この年、日本で最初の流通貨幣と言われる「和同開珎」が発行された。