#ちょっと変わったタグあります
noteは、意味の広がりが豊かな言葉、多様な解釈ができるテーマをなるべく探しながら書いています。でも、やっぱり何も思いつかず、ネタが尽きることはあります。
こちらの記事は、そんなときのための備忘録。そのうち使うかもしれないし、使わないかもしれないタグ置き場。
もしよかったら、ちょっと眺めて行ってください。
もちろんお使いいただいて大丈夫です。むしろ、使ってくれたら嬉しいです。絶対読みにいきますから。
新しい靴をはくとき、ってどんなときですか?どこに出かけますか?なんだかそれだけでわくわくするような、ドキドキするような。新しい靴というのはなにかの比喩かもしれません。
「君は彼らの物語の途中に飛び入り参加している」伊坂幸太郎が小説の中でそんなフレーズを使ってました。でも、日々の中でそんなことが、結構あるような気がしています。新しい場所で始めるあなたの物語でもあるし、誰かの物語の続きでもある。自分の人生を生きて、誰かの人生と関わる。人生が物語だとすれば、誰かと関わることはその物語に飛び入り参加することだ。そんな物語をいっぱい聞きたい。見てみたい。
足跡をつけることの意味を考える。SNSが日常になってからは足跡は、そのままの意味よりもその記事を見たよ、というログのように使われているかもしれない。足跡をたどる、足跡を残す、足跡を探す。足跡は人の気配を、たしかに感じさせる。誰の足跡か分からない、もしかしたらあの人だ、と思わせるくらいの足跡が、きっと面白い。
おまじない、っていいですね。何の根拠もないけど、がんばれる、楽になる、そんなおまじないを子どものころはたくさん持っていたような気がします。思い出のおまじない、今もときどきやってるおまじない。いろんなおまじないの話をしませんか。
仕事をしているとき、頭の中に流れている音楽があります。耳に残る子ども番組の音楽、CMやスーパーで流れていた単調なメロディ、なぜかそういうもののほうがよく流れている気がします。好きな音楽、とはまた違う、そんな頭の中のBGMがあります。
「ざらざら」という川上弘美の小説が好きです。ざらざら、そういう手触りのものってただ触れるものだけでなく、たくさんあるように思います。その手触りが、どうして人を惹きつけるのか、考えてみたいです。
それは、旅だったり、人生だったり、なにかのプロジェクトだったり。旅の途中であることは、日々生きていれば当たり前のことなのかもしれません。途中であることを感じているときは、少し立ち止まって後ろを振り向いてこれまで来た道のことを思っていたり、これからの作戦を考えたりしているときのような気がします。そんな長い旅の途中に思うこと。
フィルターというものは、いろんなものを遮ってエッセンスだけを通します。不純なものを取り除き、抽出する。でも、フィルターを通らなかったもの、フィルターにこびりついて残ったものについて、考えてみたくなります。それは本当に不要なものなんでしょうか。あるいは、なぜフィルターがあるんでしょうか。
限界って分からないですね。自分の限界も分からないし、もっと大きく、人類の限界も分かりません。限界ってなんだろう。
ブックオフは、派手でチープでうるさくて、でもどこか憎めない。立ち読みしてもいい、本を探してもいい、そんな場所での待ち合わせ。相手が少し時間に遅れても、許せそうな。そんなブックオフは嫌われているようで、意外と愛されているような気がします。
朝起きると、外は雨。今日は土曜日。悲しいような、ほっとするような、そんな悲喜こもごもとした感情が現れる瞬間があります。雨の土曜日。急にぽっかりと空いたその時間をどうやって過ごしますか?
立ち直るのが苦手です。悲しみのあとで、どうすればいいのか、どうしてあげるのがいいのか。いつも迷いながら、なかなか踏み出せないでいるような気がします。誰かのことを思っていても、なにもできないもどかしさ、悔しさ。上手く言えないし、誰にも言えないかもしれない。でも、それでいいと思えるようになるまでの時間を大切にしたい。
ぼーっとしているのが好きです。何しているときが好き?と訊かれて、一人でぼーっとしているのが好きと答え、困らせたことがよくあります。でも、本当はぼーっとしたいときもある。そうやって生きていたいときもある。日々はだいたいにおいて忙しいから。
バナナだったり、なにか食べたくなることってありますよね。真夜中の食べ物の背徳感。真夜中だからこその特別なスパイスがあるような気がします。もちろん、食べることじゃなくても、突然走り出したっていいんですが。こんな夜中にも世界は廻っています。
Re: この文字を見るのが嫌という人もいると思います。面倒だな、やらなきゃな、とか、待ってるのに、とかなぜか私も負の感情ばかりが溢れてきます。返信もしないで、twitterを投稿して怒られたり、他のことにかまけたり。ダメなのは分かってるけれど、でもやっぱりやってしまいます。
開いたコミュニティ、閉じたコミュニティ。開いた状態と閉じた状態の自分。いろんなところで、開くと閉じるの作用によって、そのときに受ける影響や関係性が変わってきます。閉じこもっていても、何かを得ることはできるかもしれないし、開いていても、何も生まれないかもしれない。開く・閉じるという仕組みについて考えを巡らせると、まるで迷路のなかに入り込んだようになります。迷うことも、また面白いものです。
なにもできなくても。なにもできないけど。その言葉の続きには、なにか希望や次に向かう勇気があるような気がします。だから、続きの話をしましょう。なにもできなくても、そばにいるだけでいい。聞いているだけでいい。そんなやさしさのある話を。
見える光と見えない光、どちらもわたしたちの生活に欠かせないものなのに、見えない光の存在はなかなか確かめることができません。これを書いて届けている今も見えない光を使っているはずなのに。科学のような哲学のような、見えない光と一緒に考える世界のはなし。
写真が日常の景色を切り取るように、世の中にあふれる言葉を切り取って、そこから世界を想像することができるはずです。そんな言葉たちをタグにして、いろんな世界がひろがって、つながっていったら面白いなと思います。
わたしたちは、もっと言葉で遊んでいい。言葉を使うことができるのだから。ちょっと変わったタグを探すように、日常の言葉を眺めてみたら、少しだけ世界が変わるかもしれません。
ぽんずさんの、『noteのネタに困ったら読むnote』も面白いです。わたしもよく過去の日記から引っ張ってます。
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