私が安楽死に反対な理由
私は、「安楽死」を社会的に認めること、あるいはそれを制度化することについて、少なくとも今の日本においては反対です。
理由は大きく分けて3つ。
安楽死が、多くの人に誤解されているから
安楽死の議論は高額な治療費とのお金(個人の負担というより皆のお金、財政圧迫)の問題とセットにされがちです。そのため「国や制度の定める一定の基準に基づいて判断される」もの、と勘違いされがちです。
現状、安楽死を制度化している国では、まず本人の意思が明確であることが大前提となっています。そのうえで、いくつもの客観的な条件を課しています。仮に本人が死にたいと思っていても、回復の余地のない病気でない場合は、認められない場合もあります。
あるいは、本人が死にたくないと思っていたら、延命治療を好きなだけしていい。少しでも長く生きたいと思う、それも本人の自己決定です。
その前提が多くの人に誤解されたままだと、本人が望んで生きたいと思っていても、周りの空気が「税金の無駄遣いだからさっさと死ねよ」となる可能性があります。そうした滑りやすい坂道の上に安楽死の議論はあります。
他の生きる権利がまっとうに働いていないから
安楽死を選ぶことができるという「死ぬ」権利は、さまざまな自己決定ができる社会が認めた一つの権利です。多くの自己決定が認められる社会においては、そうした選択肢もまたあってしかるべきかもしれません。
でも、今の日本はそれほど自己決定が自由ではありません。人の自由を守る基盤も不足しています。いじめも起きるし、過労死も起きる。自由に学校も職場も選べるはずなのに。そして自殺者はとても多い。そんな社会で安楽死だけが先走って制度化されたら、多くの人が「生きづらさ」を理由に安楽死を選択してしまうのではないでしょうか。
安楽死を認める前に、もっと他の権利を充実させませんか?障害のある人でも働ける、のびのびと生きられる、さまざまな生活の困難があっても立ち直ることのできるチャンスが生まれる社会。そうした社会が前提でなければ、「安楽死」はただの重荷にしかなりません。
いつ死ぬかなんて、誰にも分からないから
余命1か月と宣告されてから、何か月も生きている人もいます。危篤状態から復帰し、また危篤状態に陥り、ということを何度も繰り返して私たちの多くは死にます。その苦しみは耐え難いものかもしれません。でも、いつ死ぬかなんて本人にも誰にも分かりません。それを本人に決めろというのも酷な気がします。まして他の誰かが決めることもできません。
私たちはいろんな「分からなさ」のなかで生きています。お互いのことが分からないから知ろうとする、学ぼうとする、そして生きようとしています。
自分にとって、本当に安楽死は必要なのか、それとも代替案があるのか、緩和ケアではだめなのか、必要なのは「苦しまないこと」だけなのか、取り除くべきは肉体的苦痛か精神的苦痛か、生きるのがつらいという実存的な苦しみも不要なのか、「死」とはいったいなにか。
いろんなことがわからないまま、誰かの死は突然にやってきます。だから、分からなくて、悲しくて泣いてしまいます。安楽死ができる世の中になって、「死」というものが何か分かった気になったとしても、私はたぶん泣いてしまうでしょう。
それでも、幡野さんが書いたことも、苦しみのさなかにいる当事者としてのありのままの本音です。「死」について考えたり話したりするのは、暗く苦しいことかもしれないけれど、間違ってても、よくわかってなくても、気軽に話せたらいいと思う。人通りが少なすぎて交通ルールが決められない、そんな状態から抜け出せたらいいなと思う。いろんな人が、いろんなことを発信できる世の中だからこそ。
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