なにもできなくても
子どものころから、自分にはなにもできない、と思うことが多かった。
というより、子どものころは実際にそうだった。力もなく、言葉も持たない子どもは、大人や世界の理不尽さに対抗するすべもなく、ただ従うしかない。誰かが傷つき、悩んでいるさまを見て、なんとかしないとと純粋に思いながらも、なにもできることはなかった。
目の前の争いを止めたくても、まちがいを正したくても、それをするための方法もわからないし、力もない。さらにいえば、そこから逃げ出すことすらできなかった。ただ、見ているしかできない。
わたしは身体的な力をつけるよりも、知識を集めることで、自分を高めることを選んだ。たくさんのことを学べば、たくさんのことを知って、それが力になれば、なにか変わるかもしれない。
そう思ってたくさんのことを学んで、大人になったけれど、自分が変えられることなんてほとんどないことを、思い知らされ続けている。
大学の頃、友だちを亡くしたとき、死という圧倒的な力に打ちのめされた。
多くの人が、悲しみに暮れ、どうしようもない無力感や喪失感を抱え、より身近にいる人は罪悪感すら感じていたかもしれない。わたしは何もできなかったという、本当は必要のないはずの罪悪感。
悲しい出来事は、ずっと続くわけでもなく、それがすべてでもなく、自分のせいでも全くない。けれど、それは理解し、消化するのがとても難しく、とても苦しい。世界はそれでも廻っていくし、人はそれでも生きていく。
なにもできないけど、なにもできなくても。
その、続きの話をしたい。続く物語を、考えたい。
喪失は簡単に埋められないし、傷は簡単には癒えない。それを直視できなくてもいい、隠してもいい、見ないふりをしてもいい。けれど、それらを無かったことにするのはできないし、しないでいたい。
誰もがそれを受け入れる強さを持つ必要はないけれど、急がないで、ゆっくりと傷が癒えるのを待って、残る傷跡を忘れないで、そのまま残したい。
なにもできなくても、見ているだけでいい、そばにいるだけでいい。変わらず、付き合い続ける。一緒に生きていく。
ずっと、とか必ず、とかそんな強い言葉はいらなくて、今日は、ここにいられる。少しだけなら、話を聞ける。それだけでも、救われることがある。
どうにもならないこと、何にもならないこともある。何にもならないこと、はそのままでいい。その後の、続きの話をしよう。その後も生きていくしかないのだから。