「やさしさ」は贅沢なのか?
やさしいものは、高い。
からだにやさしい、地球にやさしい、社会にやさしい、動物にやさしい、労働者にやさしい。
時間をかけて丁寧につくり、水も空気も汚さない、きちんと作り手に還元される、そういうものにはお金がかかる。
”現代のラグジュアリーとは、社会や環境に責任を持つことを意味する。”
『大量消費社会~アパレルとコンビニの不都合な真実~』第2章より
これはバーバリーのCEOの言葉だ。
責任を持つ。なんだかちょっとくらくらする。
ユニクロやしまむらの服を着て、100円のコンビニコーヒーを飲んで、安いスマホで遊ぶ。そんな僕らは社会や環境に対して責任を持たず、やさしくない生活を無意識のうちにしているのだろうか。
「やさしさ」はいまやたいそうな贅沢品になっている。
当たり前のことを当たり前に言えるような、やさしい企業に勤める人はほんの一握りだけ。
無添加、無農薬、有機栽培、それらの言葉はモノの値段を上げる付加価値を持っている。やさしい食べ物は価値がある。
ファストファッションはことあるごとに安い労働力の搾取を批判されながらも、その勢いは変わらない。
それを買わない選択肢で残るのは、エシカルなラグジュアリーだ。正しく丁寧に作られ、正しく工賃が払われたものは、高い。
「安さ」が当たり前になった世界では、やさしいものが相対的に高くなる。「安さ」は大抵の場合、だれかを搾取するものだから。とはいうものの、その安さが当たり前になった世界で、高いものが買えない私たちは、いつのまにかやさしくない世界の一員になっている。
なんだか悲しい。
みんなやさしくなりたい、やさしくありたい、はずだ。
でも、余裕がなければやさしさは生まれない。
金銭的にも、時間的にも、空間的にも、そうだろうと思う。
「やさしさ」は価値のある特性だ。でも、それは一部のひとのあいだで流通するものとは違う。
本当に「やさしい」ものってなんだろう?「やさしさ」をみんなが享受できる社会や仕組みってなんだろう?
モノを買うとき、少しだけそんなことを考えている。おかげで、店員さんにきちんと顔を向けて「ありがとう」と伝えることができてる。もちろん、それだけじゃ足りないから、もっと広く深く、仕組みを考えたい。考え続ける。