共感力や寛大さがつくる未来
『小売の未来』という本のなかで、これから求められるリーダーの資質みたいな文脈で、4つの言葉が紹介されていた。
・Humility(謙虚さ)
・Empathy(共感力)
・Resilience(立ち直りの早さ)
・Openness(寛大さ)
どれも控えめな資質のように思える。けれど、どれもいま私が関心の高いものばかりだった。
エンパシーについては、下記の本にも詳しい。「共感力」というと、だれかに共感を促すような、あるいは共感しなければならないようなどこか息苦しいものにも思えるが、私たちがよく「共感する」と表現するのは「シンパシー」であって、エンパシーとは違う、という。エンパシーは身につけられる能力であり、個人の想いや好みといったもので感じるものというよりは、誰かのことを理解しようとするための素地、スタンスのようなものだ。
「他の誰かの靴を履くこと」がエンパシーだと、彼女の息子が何かのテストで答えたらしい。ずっと誰かの靴を履くわけではなく、一時的にちょっと履いてみる。それで、相手のことが分かることもあるし、全部が分かるわけでもない。そしてあくまで自分は自分の靴で歩いている。
同時に、「寛大さ」のようなものも、心にずっと引っかかっている。この数日だけでも、沢山の人が過去の表現や言動によって叩かれ、表舞台から去る場面をみている。かといって、それらは許されるものではないし、ではどのようにして「寛容さ」や「寛大さ」は成り立つのか、と。
少し前に新今宮のブランディングのために書いたエッセイが炎上したライターが、その後どのようにしていま新今宮に向き合っているのかを綴ったnoteを更新している。
長い間、なぜ自分の表現が良くなかったのか、をひたすら向き合った文章だと感じた。ここまで誠意を尽くして、自分の起こしたことを向き合える強さを誰もが持っているわけではない。それでもなお、彼女のことを許さない人もいるのかもしれない。私は彼女に傷つけられたわけでもなく、その地域に縁があるわけでもない。許すもなにも、はじめから関わってすらいないのだけれど、でもこの社会は彼女の表現を許さなかったし、それに対し傍観者でいてよかったのだろうか。私に許す権利があるわけでもないし、「社会」のどこにそれがあるのかもよくわからない。法的なことに触れれば、もちろん分かりやすく裁くことができるが、そうではなく、ちょっとしたことで、無意識に誰かを傷つけてしまうことのほうが圧倒的に世の中に溢れている。
無意識に誰かを傷つけてしまうことを自覚することは、「謙虚さ」の一つなのかもしれない。同時に、それを赦す「寛大さ」をどのように社会のなかで実現すればよいのか。一度ついた火は消えるのに時間がかかる。その間、少なくとも代理店に選ばれるような優れたライターがその活動停止を余儀なくされ、反省の時間を設けなければ許されない、というのはやっぱりもったいないし、もっと早く立ち直れる社会であったほうがいいのに、と。
多様性とはまったく関係のない本を読んでいても、良い本はそれを突きつけてくる。小売の未来だけではない、社会の未来のために、もっとこのことについて考えを深めたい。私の文章だっていつ叩かれるかわからないし、いつも間違えないなんてことはない。人は間違える。だから間違いが起きてしまうことを個人の過ちとしてではなくて、社会の構造の歪として捉えたいし、どんな社会的な背景がそうさせてしまったのか、そうなってしまったのか、に目を向けたい。難しいけれど、そういうことを考えて、考えたことをなるべく自分の言葉に落としていく。