「この館を私の美術館に!」
≪ パリ滞在記・その3−1 ≫
〜Musée Rodin Paris ロダン美術館・前半〜
ドラクロワ美術館を出て、次はロダン美術館を目指して出発!
まだ自分がパリにいる実感が沸かず、映像をみているようなフワフワした気分でパリの街並みを進んでいくと、門前で銃を構えたカッコイイ警備員がチラホラ。
パリ7区セーヌ左岸、ここは「ヴァレンヌ通り」で、イタリア大使館、農務省や連邦政府庁舎が並んでいるようです。
その一角に、違和感なく並んでいる「美術館」がありました。
通りからロダン作「カレーの市民」が見えて、早くもワクワク。
門をくぐると、前庭には「考える人」、「バルザック」そして反対側には「地獄の門」も見えています。
ここでは彫刻が 庭の一部、景色の一部、そして自然の一部として溶け込んでいるのですね。通りを挟んで見えるアンヴァリッドの美しい建物も含めて、全てがこの空間に調和しているようです。
いざ、ロココ様式の建物「ビロン館 Hôtel Biron」の中へ。
ここでロダン美術館の成り立ちについて調べたことを少し書きます。
◉1728年〜1730年 シャンティイ大厩舎の建築者ジャン・オベールが建物を設計。
◉1753年 ビロン将軍が館を入手したことから、この名称で呼ばれています。
◉1820年 サクレ=クール修道会の手に渡った時、チャペルが建てられ、華美な装飾を拝したそうです。そのチャペルは現在、美術館の受付やミュージアムショップになっています。お洒落✨
◉1908年 詩人、リルケ、ジャン・コクトー、画家、アンリ・マティス、舞踏家イサドラ・ダンカンらが、安く貸し出されたこの建物で暮らしていました。リルケの誘いで、ロダンも1階の部屋をいくつか借りるようになり、ここの暮らしが大変気に入ったそうです。
◉1911年 国がこの領地を買い取る際にロダンが提案します。
「全作品と美術コレクションを寄贈する代わりに、この館を私の美術館に!」
この提案に政治家クレマンソー、詩人アポリネル、画家モネ、作曲家ドビュッシーらが賛成したそうです。しかし反対意見も多く、美術館案は難航します。
◉1916年 ようやくロダン美術館の設立が決定。
◉1917年11月17日 ロダンは2年後の開館を見る事なく死去。
◉1919年 ロダン美術館が開館。
“美術館のための建物ではない” 場所を美術館として公開している のが素敵ですよね。それが Paris 。
“美術館のために創られた”、日本の美術館も好きですが。
さて、前置きはこのくらいにして…。
美術館の中には、ロダンの彫刻やデッサンの他に、ロダンが集めた手、足、頭部など体のパーツの歴史的彫刻もたくさん展示してあります。‘完璧な人体彫刻’を完成させるロダンも、お手本を前に試行錯誤や努力を重ねていたのですね。
また、ロダンのコレクションの数々(ゴッホ「タンギー爺さん」、モネ、ルノワール、ムンク等々)も素晴らしい!
もちろんカミーユ・クローデルの作品もありました。楽しい😊
そして建物奥にあるフランス庭園が広くてびっくり。
「パリの一等地、だだっ広い庭だけにしておくのは勿体無い!」と思ってしまう貧乏性の自分が恥ずかしいです💦 空間があると そこを埋めないと不安になってしまう症候群でしょうか。
庭園にはロダンの作品が点々と配置されています。その空間の一部として。
これだけ広い敷地であるからこそ、松方コレクションを一時保管しておくことも可能だったわけです。
少し長くなったので、以下は<後半>に続きます。
<その3−1 >終わり