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画壇の明星(22)①・ジェリコー

古本屋さんで見つけた1951-1954年の月刊誌『国際文化画報』。その特集記事【ルーヴル博物館案内】や【画壇の明星】についてシリーズで投稿しています。
美術界の巨匠たちは 70年前の日本でどのように紹介されているのか、そして70年前、日本という国はどんな様子だったのか・・・。
今回は1954年2月号です。

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まずは特集【ルーヴル博物館案内】。

今月は、テオドール・ジェリコー『メデューズ号の筏』、1816年実際に起きた事件を題材に描いた作品です。
以前、この作品について記事にしたことがあるので、作品の解説は簡単にご紹介するに留めます。

操縦ミスで座礁したフランスの軍艦メデューズ号。救命ボートに乗れなかった149人は牽引される急ごしらえのいかだで脱出しましたが、ボートの乗組員が牽引ロープを切り離します。筏はその後13日間漂流して、発見された時の生存者はたった15人だったそうです。
生存者は、食料も水も助かる見込みもほとんどないまま、尿を飲み、命を落とした人の肉を食し、狂気に晒された状態で殺戮さつりくもあったというのですから、想像するだけで苦しくなります。

フランス革命直後に生まれた画家ジェリコー(1791-1824年・享年32歳)は、生存者・関係者に取材を続け、病院で本物の死体を観察し、切断された手足、生首を自宅に持ち帰りデッサンを重ねて本作を完成させたといいます。
誰に依頼されるでもなく 社会的事件をドラマティックに描いた『メデューズ号の筏』は【ロマン主義】の象徴的作品となったのですね。

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さて今回注目したいのは、作品の周辺情報です。

◉70年前に日本で見ることができた西洋絵画

1954年『国際文化画報』に掲載された写真は、ルーヴル美術館発行の作品集をカメラに収めて、何が描かれているのかわかり易いように色調整したのでしょうか(←勝手な想像です)全体的に明るい色調です。

『国際文化画報』1954年2月号の記事より

波こそまだ高いのですが、筏には陽が差し込んで嵐が過ぎ去ろうとしているように見えます。描かれた人々の様子もよくわかります。奥にいる人々がどんな表情をしているのか、すでに息絶えている人の判別もできそうです。
しかし、この作品がもつインパクトと壮絶なドラマ、画家ジェリコーの執念とその画力・人間力は70年前日本にいた人々には伝わっていなかったのですね。

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一方、現代を生きる私が世界中のどこにいても入手できる画像(下)は、4年半前に観た実作に非常に近いように感じます。

テオドール・ジェリコー『メデュース号の筏』1818-1819年

ルーヴル美術館のグランドギャラリーは大勢の来場者でごった返しているので、時間をかけてじっくりと細部まで鑑賞したい時は、もしかしたら画像の方が適しているのかも知れません。

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◉『メデューズ号の筏』の保存状態について

“右側の上体を起こす人物のかたわらには人肉食を暗示する血の付いた斧がある”
と解説書に書いているのですが、ルーヴル美術館で “斧” を探し出すことは至難の技だと思います(斧がどこにあるのか知りたい方は、70年前の記事を見てください)。
全体的に暗くて、筏の上に何人の人がいるのかさえよくわからなかったのです。

原因の一つは、縦5メートル近く、横7メートル超えの大作であること。
視線より高い場所にある部分は近づいて観ることはできませんでした。

もう一つの原因は、作品の保存状態が悪いこと。
ジェリコーが使用したビチューメン(瀝青せいれき)いう塗料は、最初ベルベットのような深みある光沢を出すのですが、時間の経過により黒い糖蜜色に変色して、縮んで表面に皺が寄ってしまうのだそうです。
作品が完成した後、半世紀も経たないうちに保存状態が悪くなってしまったため、ルーヴル美術館は貸出用として本作と同サイズの模写を作成したのだとか。。。
「作品のかなりの範囲で詳細が判別できなくなっている」と美術館も認めています。
修復さえ困難な状態にあるのですね。

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◉習作との比較

ジェリコーが描いた無数のデッサン、そして習作が残っているそうです。
フランス社会に衝撃を与えたこの事件の、どの場面をどのように描くのか・・・設定や構図を考え抜き、構想に長時間かけたのですね。

ルーヴル美術館が所蔵する習作の一つがこちら(下の画像・右)。

左)完成品
右)習作

習作ということもあり、塗料「ビチューメン」を使用しなかったようです、ジェリコーがのせた色彩がしっかり残っています。赤色が効いていますね。
習作(右)では救助の船が近づいているようです、良かったぁ。。。と映画のワンシーンを見ている気分になります。

それに対して完成品(左)は、我々を傍観者として鑑賞することを許してくれません。筏の上に引きづり込まれた私は、遥か遠く水平線に点のような救助船を見つけると、死体を踏みつけて筏の先頭に進み、力の限りタオルを降り続けることになるのです。
完成品は、筏の大きさに比して人間を実物大以上の大きさで描いていること、そしてよく指摘される “二つのピラミッド構造”(=①筏の穂先を頂点とするピラミッドのみならず、②空の樽の上に立って布を振る乗組員の手を頂点とするピラミッド)がダイナミックさを演出しているのですね。素晴らしい✨。

ちなみに、前景で顔をうつぶせにして左手を伸ばした人物のモデルをドラクロワが務めたというのは有名です。ドラクロワもこの作品に参加していると思うちょっとドキドキするのです。

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◉【新古典主義】ダヴィッドとの比較

【新古典主義】 VS. 【ロマン主義】の中心的画家として、
アングル VS. ドラクロワがよく挙げられるのですが、彼らに先立つ重要な画家は、ダヴィッドとジェリコーなのです。
【新古典主義】のダヴィッドが描いた作品を見てみましょう。

ジャック=ルイ・ダヴィッド『ホラティウス兄弟の誓い』1784年

紀元前七世紀、父が3人の息子たちを戦いに送り出す場面です。古典的で理想的な英雄を描くために考え抜かれた構図、ポーズが取られています。
ローマ時代の建築様式、明確に引かれた線、滑らかな肌や布感は色の階調によって描き分けられているのですね。完璧です✨。

一方のジェリコー、そしてドラクロワが完成させた【ロマン主義】。
ここでは高階秀爾先生のお言葉をお借りします。

事実、ドラクロワが繰り返し明言しているように、ロマン派の画家たちは、ダヴィッドが唯一絶対のものと考えた「理想の美」を否定し、それぞれの芸術家の内面を反映した数多くの「個性的な美」の存在を主張し、芸術家は、そのような自己本来の独自な美の世界を確立すべきだと考えた。そのためには、先人の形式をそのまま「模倣」することではなく、鋭敏にうちふるえる自己の魂の感動をそのまま色と形の世界に翻訳することが必要であった。このようにして、ロマン派は、理性に対しては感受性を、デッサンに対しては色彩を、安定した静けさに対しては民族や芸術家の個性を、優位に置いた。つまり、ひと言で言えば、「古代」に対して「近代」を主張したのである。(中略)
テオドール・ジェリコーはわずか33歳に満たない短い劇的な生涯のあいだに、「理想の美」に安住していた新古典主義の美学を根底から揺るがすような大胆な革新を試み、ロマン派への道を準備したのである。

高階秀爾先生『近代絵画史(上)』より

全てを高階先生が語ってくれたので、私が補足することはありません。

もう一度『メデューズ号の筏』を鑑賞して終わりにしたいと思います。
鋭敏にうちふるえる自己の魂の感動をそのまま色と形の世界に翻訳」したジェリコーの個性。堪能しましょう。

再登場)ジェリコー『メデューズ号の筏』1818-1819年

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ちなみに・・・私がお勧めするジェリコー作品は『偏執病者シリーズ』です。
ご興味ある方はこちらの記事を覗いてみてくださいませ。

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記事が長くなったので、【画壇の明星】については次回投稿でご紹介します!
今回はカミーユ・ピサロです。

<終わり>


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