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寂しさで他人をコントロールしようとする人たち


作家のエージェント遠山怜です。誰にとっても他人事ではなくて確実にあなたの周囲で起こっていることで、そしておそらくあなた自身に関係している話をしたい。つまり寂しさとその諸々の変化球について。

数年前、ある飲み会に参加したときのこと。
ほとんど初めて会う人が揃う会で、参加者は探り探りコミュニケーションを取っているような場。そこである年配の男性が若い女性に声をかけていた。相互理解を深める、知り合った同士の初期の雑談として出身地の話をしていたのだが、その女性が京都出身だというとその年配の男性は声を大きくした。「えー、京都なの?俺、嫌なんだよねー、京都の子」周囲になんで、と聞かれるのを待ったうえで仰け反りながら話す。今まではむっつり黙っていただけなのに、なぜか得意げだ。「昔、京都で事業を立ち上げたことがあるんだけど、ぜんっぜんダメでさー、ほんとあそこで起業するのはダメ。難しい。あそこにいる人たち独特なのよ。やだわー」。一通り話切った後、なぜかニヤニヤしながら彼女の反応を探っている。が、しかし京都出身の彼女は飄々としている。「あ、そうなんですね。じゃあいいです」そして二度とその年配の男性は話しかけない。その男性は唖然としている。きっとその男性は「えーwやめてくださいよお」とか「なんでですかー」のような反応を求めていたのだろう。騒いだり、私に構ってくれと相手が食いついてくることを待っていた。いじる方といじられる方というコミュニケーションの型を作り上げようとして、そうそうに相手にされなくなってしまったらしい。

彼はそういった対応が来ると思わなかったのか、一瞬固まったあとスッと血圧が低くなったのか白くなり、明らかに酔いのせいではない怒りゆえの赤みがまだらに顔に刺している。固い瞳がぎらりと憎悪がために光る。あげつらってやろうと思っていた言葉は、相手が何もいわないため口に出せずに黙り込んでいる。小刻みな震え。自分から攻撃したわりに、他人にやり返されると衝撃を受けてしまう。私はなぜかその仕草と顔のことを良く覚えていた。

彼に限らず、このようなちょっかいやからかいを他人に仕掛けることで交流を図ろうとする人間は多い。このケースではこれで終わってしまったが、人によっては相手が応対してこないことをさらに非難したり、自分の言動を正当化するべく理論武装を試みる人もいる。からかいというコミュニケーションの皮すら被らず、もっとストレートに自身の怒りや都合で他人にぶつけ、欲しい反応を得ようとする人もいる。または必ずしも相手にそのままぶつかっていくのではなく、一歩引いたり壁を作るそぶりをすることで他人からの注目を得ようとする人もいる。本当に一人でいたいのではなく、構われ待ちとしてやっているケースだ。

考えてみると、こういった妙にひねくれて攻撃的なコミュニケーションにはいろんなパターンがある。一方的に自分の感情や都合を発散している場合とも似ているが、その自分の行動で内心、他人から反応を引き出そうとしているのだから目的がある。ただ、本質的には攻撃的で時には暴力ですらあるのに本人にその意識は低く、相手にどれだけ構われるか、または構われなかったかにしか興味がない。「〇〇が××してくれないから(だから私の行為はしょうがない)」と他人に転化してばかりの人もそれだ。

自虐や自己破壊的な言動も、他人から何かの反応を引き出すために使っている人もいる。コミュニティの中で困った人、として認識されやすいタイプだ。こういったコミュニケーションは職場や学校など時には敵対したり縄張り争いをしがちではない場所、趣味や遊びの延長であるコミュニティなども見かける。なぜこんなことが起きるのだろう。

答えは私のうちから得られた。一つは実体験から、もう一つはある教えから。

ここまで書いて来たことは、まったく他人の観察から得られた描写ではなく、時には自分がやってしまっていることだ。自分の自然な感情の発露、というよりも相手から何かの反応を得たいがために他者に突っぱねたり何かを仕掛けていることが、ある。認めたくはないが、そうぜざるを得ない何かがあった。その正体に気づくヒントをくれたのはある精神分析家の言葉だ。その人物が言っていたのは「人間のすべての言動は愛の求めである」ということ。元は精神分析に訪れる患者たちのあらゆる言動を指した言葉だが、妙に納得させられた。泣く、怒る、詰る、嫉妬する、主張する、挑発する、閉じこもる、みなこれは他人に対して向けられた時、愛を求めようとするやり方である。本人が意識しているかいないかは別で、そして求める愛のあり方は多様だけれども。

愛の要求、そしてそれが足りないときの寂しさ。そういった感情は、実は社会において適切に発散する方法が少ないのではないだろうか。比較的環境に恵まれていて、かつ幼少期でない限り、妬み嫉みよりもはるかにストレートに出し難い感情だ。大多数の人間は寂しさの正しい取り扱い方法を知らずに育つ。そして寂しさを知らぬ社会で生きていかなくてはならない。歳を取れば取るほど「寂しい」と気軽には口にできなくなってしまう、決して感情はなくならないのに。

特に男性や地位のある人は寂しさをうまく取り扱えずに、怒りや権力で相手を抑え込もうとして止められなくなる傾向があるように思える。そして女性は自分の負のエネルギーを内に抱え込もうとして自滅するケースが散見される。自分の寂しさを認識し、他者とのコミュニケーションに昇華することができない人は、本当に欲しいものを変化球で誤魔化す。または自分の問題ではなく、相手のせいにする。そうして得た他人の反応という蜜に中毒し、どれほどひねくれたやり方であってもやめられなくなる。支配またはコントロールという形でしか他者と交流できない。たとえ人が離れていったとしても。そして歳を重ねて誰からも注意を引けなくなっても自分のスタイルを変えられない。

これは決して、人ごとではないはずだ。私もそうであるし、きっと他の人もすでにこうであったり、そうなる可能性は高い。

寂しさを発露しにくいのは、きっとその理由の説明が難しいことも関係している。明確に誰かのせい、例えば死とか別れの原因がない場合、最もらしい理由がつけられないことの方が多い。なんだか寂しいんです、なんていってもなぜだか説明がつけられない。幼少期の心の傷が、とかトラウマが、とか大仰な理由を持ち出さないと格好がつかない。綺麗な説明ができない感情は、容易に他人と共有することが難しい。または、相手を選ばないとあらぬ勘違いを受ける危険性もある。自分で認識すること以前に他人に伝えることも容易ではない。

それでも、自分の行動や感情を振り返って見て、その寂しさに気づき、適切に誰かに弱音を吐いたり共有することは重要なことだ。

なぜなら寂しさというものは恋人、家庭、子供、社会的地位、仕事、役職、友人、お金、学歴、仲間というものがあれば感じずに済むものではない。これらが揃っていても、満たされない気持ちを抱くことはあるし、何かの不運で一時的に不安定な状況に置かれることがあるからだ。誰にでも決して、関係ないものではない。

自分の寂しさに気づくことができないと、相手を振り回すことや周辺のトラブルに注力して本当の問題にたどり着けないまま、自分も他人も磨耗していってしまう。自分の問題を変に社会活動や仕事、恋愛・家族関係に絡ませると別の要因と紐ずいてどんどん解決し難くなってしまう。本当はちょっと寂しかったから、という些細な感情から始まったのに、気がつくと取り返しのつかない事態になっていたりする。

寂しいという感情は情けなくて、認め難い。口にしたら負け、という風潮すらある。でも、その分きちんと見つめて他人にうまく伝えることができれば、「こう考えて当然」「常識的な」「正当な要求」「しょうがない」と思ってやっていたことよりも、ずっといい結果が得られるだろう。

寂しさが自分の人生に関与する可能性を知りながら生きることは辛い、でも弱さを認めてしまった方がずっといい。なぜなら私たちはどんな環境にいても、たった一人で生きているに過ぎないのだから。

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