旅を通じて、自分を知っていく。自分らしさの片鱗の見つけ方。
以前、前向きに「どうして自分の気持ちに、そんなに素直でいられるんですか?」という類いの質問を受けた。
どうしてだろう…?あまり考えたことがなかった。
昔からこうだっただろうか…?としばらく考えてみたのだが、以前のわたしは自分の感情に対して、善し悪しをジャッジメントしてしまい、論理で感情を置き去りにしてしまう瞬間が今よりもずっと多かったように思う。
それは「素直」とは程遠い。
こんな感情を抱いてしまう自分はダメなんだろうか…?とか。
最初にやってくる心の反応を感情を無視して、頭で論理的に考えて答えを出す。
「〇〇って、こう」みたいな正しさの枠に捉われて、自分自身をも縛っていたように思う。
決して褒められない表現として、所謂「優等生タイプ」と一括りにして語られる性格そのものである。
そんなかつてのわたしが先天的にデフォルトだったならば、今のわたしは随分と変わったように思う。
変わるきっかけをくれたのは、自分と向き合う旅をし続けてきたことであることは間違いなさそうだ。
そして、その思考・選択について、その後の人生で決してアンインストールできないまでに自身の心に定着させてくれたのも、また旅をし続けてきた恩恵であると言うことができる。
自分の気持ちに「素直」であること。
決して、嘘をつかないこと。
それが自分自身との約束であり、生き様であり、モットーになった。
旅のメモで自分と向き合い、語らう
旅の中で抱いた感情は、出来る限りその都度メモするようにしている。
お行儀のいい言葉でなくて、ありのままにiPhoneのメモ帳に事実と感情をセットで書き残すようにしている。
自分の裸を見られているようでとても恥ずかしいが、今回は伝わりやすさを優先するために数々のネイキッドなメモの中からこマシなものを選んだので、恥を忍んで晒そうと思う。
ところで、こマシって関西弁ですか(どうでもいい…)
実際のメモの大部分を占めるのは、小学生くらいのIQでもっと乱雑にそして稚拙でカオスな表現で書かれていることを先におことわりしておくとして…およそこのような感じでメモしている。
そちらは、とてもじゃないが晒せない…w
SNSに晒すことを目的にしない
後から振り返ったとき、記憶をたよりにSNSで発信をしようと思うと、どうしたって他所行きな綺麗な言葉で表現されてしまうことは否めない。
採れたての気持ちを産地直送で鮮度高く伝えたいという思い(=生の感情)があったはずなのに、タイムラグを挟んで他者に伝えるという行為をしようと思うと、後から当時の情景や感じた想いをできる限り鮮明に思い出そうとしても、どこかで他者に見られていると感じることから他所行きの自分が顔を出してしまい、フレッシュさはなくなり、どこか加工食品のような伝え方になってしまうのだ。
他者のそんな表現はすぐに気づいてしまうし、自分だって例外なく見抜かれてしまうと思うのだ。
くり返しになるが、だからこそその都度感情をありのままに書き残すことを大切にしたいと思っている。
お行儀よくなくて良い。
いい子になんかならなくていい。
いつもいつも、めでたしで終わらなくていい。
そう思いながら、感情をメモする過程で自分を許していく。
ひとしきりiPhoneのメモに書き連ねたら、それらの感情に対して、今の自分はどういう感情を抱くのか、という一点をつぶさに見つめていく。
そこに自らの行動や選択をジャッジメントする要素は必要ない。
(…というか求めなくていい。)
この過程は、自己対話であり、セルフコーチングをしている時間なのだ。
わたしの場合、便宜上デジタルのメモを多用しているが、人によっては紙のメモでももちろんいいと思う。
旅を通して、自分なりの美学が形成されていく
旅をしている間だけは、自身の「好き」や「嫌い」の判断軸がとても明確になる。
一気に二極化する訳ではなく、カラーパレットの上でどこに位置するのかグラデーションに近いかたちで判断できるようになるイメージに近い。
「好き」や「嫌い」の他にも、「アリ」か「ナシ」か。
同じ事象であったとしても、「美しい」ととることもできれば、「醜い」と受け取ることもできる。
ある事象は、「不安」ともとれるし、「希望」とも受け取れる。
そうした小さな自己対話の積み重ねの果てに、自分なりの美学が形成されていく。
大切なのは、他人や世間の判断軸よりも、自分の心が本当はどう反応しているかということ。
それが、一番ピュアで大事なのだ。
誰しもが、もっともっと自分に素直になって、好きな方を選べばいい。
と私は心から思っていて。
旅の間中、人生をデザインするようにそんな言葉を自分に贈り続けているんだ、と思った。
旅を通じて、自分を知っていく過程の中で、自分らしさの片鱗は必ず見つかる。
本当の自分はどうしたいか、にフォーカスすればするほど、目の前の事象から受け取れる力は向上するのではないか。
旅だからといって、必要以上に非日常を求めることもしない。
私の定義の中では、暮らしの延長線上に続く道の上に「旅」は存在し、また日常に戻っても「旅」は続いていると言える。
もっとシンプルに、悪びれず、そして変な遠慮もしないでフラットに目の前のことを受け取る。
そのエッセンスを求めて、私は旅に出ているのか。
本記事を書くにあたって、そんな気づきを覚えた。
ポジティブな感情もネガティブな感情も、一旦その感情自体にジャッジメントはいらない。
ふ〜ん、と思って俯瞰的に観察してみる。
言わば、ヨガや瞑想に近い感覚だと思っている。
仮に、何らかの想定外の事態が起きた時も、今の波長と違うんだということを認めるのも、旅の醍醐味のひとつだと思うから。
自分自身を深めるために、異なる価値観を前向きに受け入れるために。
自分次第でいかようにでも変えていけるこの素晴らしき曖昧模糊な世界を自分らしく渡り歩いていくために、そして、何よりまだ見ぬあたらしい自分に出会うために、私はこれからも自分と向き合う旅をし続けたいと思っている。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
また旅に出て新たな気づきが芽生えたら、その都度このnoteでシェアしたいと思います。