一人旅が好きな理由は、そこに愛すべき孤独が存在するから
一人旅って楽しい?寂しくない?
時々、こんな風に尋ねられることがある。
大人になるにつれて一人で旅することにどっぷりハマっていった私からすると、一人旅はものすごく楽しくて豊かな過ごし方のひとつだ。
旅に出るとき、自らの意思で望んでそっと一人になる。
この世で誰も私のことを知らない土地に行ってみたい、というワクワクを携えて。
寂しくないか?という問いかけには、う〜ん、ちょっとその気持ちが分からないというほど、旅の間中、寂しいという感情に向き合うことがほぼない。
ひょっとして、そこには愛すべき孤独が存在するからではないか、と先日はじめて言語化できたような気がした。
今日は忘れないうちに、旅中の愛すべき孤独について考察していきたいと思う。
旅中の愛すべき孤独についての考察
1. 一人の時間は最高の自己投資
個人的に、旅中の一人の時間は、自己探究や内省の機会ととらえている。
孤独な時間の中で(本人は孤独とは思っていない)、自分自身と向き合い対話しながら内面の心の声に耳を傾けることで自身とのつながりがより一層強くなっていく実感がある。
また新しい土地、環境、文化、ローカルとの交流、日々些細なことに刺激を受けながら、自分自身と向き合い、内なる思考や感情に耳を傾ける。
その時々で得られるものに時差はあれど、旅が自己成長や自己理解の大きなきっかけになっていることは間違いない。
だからこそ、一人の時間は自分への最高の投資と言い換えることもできるのだ。
集団行動が苦手が身からすると、常に他者と行動を共にしなければならない、という状況には逆にプレッシャーを感じてしまう。一緒にいる相手が機嫌よく過ごせているかなど過剰に気を遣ってしまい、本来的に大事にしている自分との接続時間が途切れてしまうのだ。
2. 創造性の発掘
孤独な状況が、自己表現や眠っていた創造性に火を灯す機会も少なくない。
普段であれば、気にもとめなかったことが異国を旅している時間は全てがインプットの時間になる。
そうすると必然として、それらの経験が新しいアイデアや視点に結びつく。
まるでボーナスタイムだ。
3. 自由と責任
ニワトリタマゴ的な表現になるが、自由な行動には責任が伴うが、全ての責任を自分で背負うからこそ、そこに自由が生まれる。
朝起きてから、寝るまでの時間を全て自分自身のペースと意思で行動し、どこへ行くか、今日は何を食べるかなど些細な選択の全てに自己裁量権がある。
まるで、フリーランスのよう。
そう思うと、旅それ自体が生き方のようにも感じる。
4. 現地での新たな出会いとつながり
現地を旅する旅人、ローカルとの交流、出会いに偶発的要素は付きものだが、一人でいたからこそ繋がることができた出会いも多くある。
一人旅は、一人であるようで一人ではない。
一人旅が好きな理由に、望めばいつでも一人になることができる状況でありながら、いつでも人と交流することができることの二律背反的なこの2つの要素が共存する点が挙がる。
偶発的な出会いのおかげで、旅の魅力や意義が深まる瞬間は多い。
現に、旅先で出会った友人やローカルとの交流が盛んだった国と地域は、後々の旅の記憶の中でも色濃く残る傾向にある。
5. 自己信頼の強化
旅中、予期せぬ事態やトラブルをはじめ困難に直面する機会は少なくなく、本当の意味で自分自身の能力を試される機会は日常茶飯事だ。
なんとかする力が上がる。
これに尽きる。
「大丈夫、これまでだって困難に直面するたび乗り越えてきたんだから。」
そんな気持ちでひとつひとつの困難を乗り越えていくたびに、自己信頼感や自己肯定感が高まる。
まとめ
一般的に、孤独とは否定的な意味で捉えられがちだが、孤独を肯定的に捉え、自己を内省したり、その土地のエネルギーから創造性を見出したり、慣れない土地であくせく色んなことにトライしていると、その時間全てが愛おしく思えてくる。
そして、そのような経験をすることで、自身の奥底にある深い感情と真摯に向き合い、向上していけるような気がする。
ここまで旅中の愛すべき孤独の肯定的な側面ばかり述べてきたが、言わずもがな私たち人間は社会的な生き物である。だからこそ、日常的に孤独を望むわけではないのも事実だ。
旅中の愛すべき孤独は、一時の限定的な期間に日常と非日常の絶妙なバランスを保ちながら実行するからこそ、一時の非日常にある孤独を最大限に謳歌できるのかなと思う。
愛すべき孤独とは、一時的に一人でいることや孤立している状況を積極的に受け入れ、その中で心の充実感や成長を見出すことと定義するなら、私はこれからもそのような時間を積極的に受け入れるために誰にも邪魔されず、そっと一人で旅したい。
そして、また日常の旅へと戻っていく。