見出し画像

【医療政策①】アメリカの保健医療システムの課題

日本の保健医療制度を論じる際に、アメリカの例が引き合いに出されることが度々あるように思われます。気になったのが、その中で「市場原理を取り入れたアメリカの医療は効率的で素晴らしい」という論調が見られることです。

しかし、本当にアメリカの医療は効率的なのでしょうか。アメリカで医療政策の授業を受け、数々のデータを見てきた自分としてはむしろアメリカの保健医療システムは非効率な印象です。

それ以外にも、現実のアメリカの保健医療システムは多くの問題を抱えており、その状況は極めて深刻です。現在行われているアメリカ大統領選でも、中絶の権利や医療保険制度は、大きな争点となっている印象ですが、それだけ保健医療システムの課題が深刻であることを表しているといえます。

この記事では、アメリカの保健医療システムが大きな問題を抱えていることを、いくつかのデータを見ながら概説します。 

突出した医療費支出

アメリカの医療費支出は、金額面でもGDP比でも、先進国内で突出しています。アメリカの2022年の医療支出は4兆5000億ドルで、一人当たり12,555ドルとなっています。これは、GDP比で17.3%に達します (OECD)。下のグラフを見ても、OECD加盟国内で突出していることが分かります(同時に、日本の一人当たりの医療費の支出額がそれほど大きいものではないことも分かります。)。

OECD Indicatoors: Health spending
KFF Health System Tracker; Health spending and the economy

具体的な医療費の内訳を見ると、入院が約30%、外来が14.5%、処方薬が約9%、介護施設が約4%、在宅医療が約3%などとなっています(AMA, 2024)。

AMA: Trends in health care spending (2024)

医療費が高額となっている要因としては、医療技術の進歩に伴う高額な治療の増加、細分化された支払いシステムによる非効率性、慢性疾患の増加による医療需要の拡大などが指摘されています。例えば、医療管理に年間3610億ドルが費やされ、これは心臓病への支出の2倍以上、がんへの支出の3倍に相当することが指摘されています( Cutler, D. et al, 2012)。このような非効率性に関し、米国のヘルスケア支出の約25%が無駄な支出であると推定される旨の指摘もあります(Shrank WH, 2019)。

他国に見劣りする健康指標

これだけ多額の医療費を投じているにもかかわらず、米国の健康指標は他の先進国より優れているとは言い難いのが現状です。

例えば、2022年のアメリカの平均寿命は76.4歳と、日本の84.5歳、フランスの82.4歳、ドイツの80.8歳などと比べて低くなっています(OECD, 2022)。以下の表はこれまでのアメリカの平均寿命の推移ですが、他国の平均を下回っており、近年特にその乖離が大きくなっていることが分かります。

https://www.healthsystemtracker.org/chart-collection/u-s-life-expectancy-compare-countries/  

1人当たりの医療費支出と平均寿命とを比較すると、アメリカの保健医療システムの非効率性が浮かび上がってきます。

https://www.healthsystemtracker.org/chart-collection/u-s-life-expectancy-compare-countries/#Life%20expectancy%20and%20per%20capita%20healthcare%20spending%20(PPP%20adjusted),%202022  

また、平均寿命だけではなく、妊産婦死亡率(maternal mortality rate)も他国と比較して突出しています。

https://www.healthsystemtracker.org/indicator/quality/maternal-mortality/#Maternal%20mortality%20rate%20per%20100,000%20live%20births,%C2%A0by%20maternal%20age,%202018-2021  

低い顧客満足度

このような状況を反映してか、Gallup社が2022年に実施した調査では、米国の医療制度が危機的状況にあると20%が回答し、大きな問題を抱えていると回答したものと合わせると約70%に上りました。また、アメリカの総医療費に対して国民の約76%が不満を抱いていると回答しました(Gallup, 2023)。

AP通信社らが実施した別の調査においても、アメリカの医療を肯定的に評価する回答者は半数以下であり、特に処方薬のコストやメンタルヘルスケアについては、7割以上が不満を感じていると回答しました(AP, 2022)。

Americans give health care system failing mark: AP-NORC poll

なお、薬価の引き下げを巡る政策に関しては、直近で大きな動きがありました。2022年にバイデン政権下で、Inflation Reduction Act(IRA)が成立し、連邦政府(厳密にはCMS)が製薬企業と対象となった医薬品について販売価格を交渉して決定する制度や、薬価の上昇をインフレ率以上としない制度が設けられました。直近のアメリカ保健福祉省(HHS)のプレスリリースでは、この制度が薬価の引き下げに大きく寄与したとされています(HHS, 2024)。

しかし、このうち医薬品価格の交渉条項については、製薬企業団体や大手製薬会社から訴訟が提起され、憲法違反で無効であるとの主張が展開されています。IRAを含め、アメリカの薬価を巡る政策動向については、別の記事で詳細に説明できればと思います。

診察までに要する時間の差異

日本との比較では、診察までに要する時間が大きく異なる点にも注意する必要があります。例えば、2022年の調査では、アメリカの15の大都市圏における医師の予約待ち時間の平均は26.0日であり、過去と比較すると増加傾向にあることがわかっています(Merritt Hawkins, 2022)。

これに対し、日本の厚労省の資料によれば、診察の待ち時間は15分未満が約3割、1時間未満が約 7 割であること(なお、外来における満足度が最も低い項目が、この待ち時間である点にも注目です)(厚労省、2024)から、日米における医療サービスへの時間的なアクセスの差異が非常に大きいことが分かります。

医療保険ごとに異なるサービスの内容・範囲

アメリカの保健医療システムは、加入している医療保険によって、カバーされているサービスや医療機関が異なります。具体的には、保険会社が割引料金で契約している医療機関(医師、病院、歯科医、専門医、薬局)のグループがあり、そのグループ内(in-network)かグループ外(out-of-network)かによって、自己負担額が大きく異なります。また、仮にグループ内の医療機関においても、特定の検査(X線など)が当該医療保険でカバーされていない可能性があります。

なお、医療保険のプラン(例えば、PPO(Preferred Provider Organization)やHMO(Health Maintenance Organization)など)によってもサービス内容が異なりますが、詳細はまた別の記事にて解説します。

このような制度のため、しばしばout-of-networkの医療機関を受診したり、カバーされた範囲外のサービスを受けるなどして、予想外の医療費の請求(surprising medical bills)が発生することがあり、金額も高額であるため、大きな社会問題となっています。なお、2021年1月1日よりthe No Surprises Actが制定され、一定の要件を満たした消費者は保護される可能性があります。

医療従事者の環境

では、医療従事者にとって、アメリカの保健医療制度は都合のよい良好な環境なのかと言われると、そうでもないのが実情です。

医療従事者におけるメンタルヘルスの問題は、アメリカの医療従事者における憂慮すべき問題となっており、様々な研究がなされています。2018年のオンライン調査では、米国医師15,000人のうち42%に燃え尽き症候群の兆候が見られたとの結果がえられています(Nicholls, M., 2019)。また、 2019年の調査でも、燃え尽きを感じる割合は44%自殺願望を報告した医師は14%との結果が得られました(Medscape, 2019)。

また、医師は、他の博士号取得者と比較して長時間勤務し、仕事と私生活のバランスに満足しておらず、燃え尽き症候群の症状を経験する割合が高いとの研究結果もあります(Shanafelt, TD., et al., 2019)。

こうした諸研究による報告について、連邦政府も事態を重く見ていると思われ、医療従事者向けのガイドブックを出すなどの対応を取っています(CDC, 2024)。

さらに、将来的な医師不足が懸念されており、ある調査では、2025年、2030年、2035年にはそれぞれ57,259人、79,080人、81,180人の医師が全国的に不足すると予測されています(Health Resources and Services Administration、2022)。別の調査では、2036年までに医師が13,500人から86,000人不足すると予測されています(Association of American Medical College, 2024)。医師が不足すれば、個々の医師への負担が増加すると考えられることから、医療従事者にとっても決して良好な環境ではない様子がうかがわれます。

おわりに

以上のとおり、非効率性を含めて、アメリカの保健医療システムは様々な重い課題を抱えていることがわかります。

こうした問題以外にも、人種・ジェンダー・居住地域等による健康格差問題、オピオイド中毒・GLP-1・タバコ・銃火器・妊娠中絶・ホームレス・環境問題(PFAS)などなど、アメリカにおけるパブリックヘルス(公衆衛生)上の問題を挙げると枚挙にいとまがありません。

日本でも社会保障改革の中で、高齢者負担率の引き上げや、出産費用の保険適用、医師の働き方改革、病院再編、低迷し続ける薬価など、様々な議論が飛び出しています。それぞれのテーマに様々なステークホルダーが関与することから、議論は紛糾し、時に感情的なやり取りの応酬になることもあるように思われます。

しかし、正直なところ、アメリカと比較して日本の保健医療システムは過剰ともいえるほど充実しているように思われます。そのような観点から、財政面・人的側面・環境面などから保健医療システムをどのように持続可能な形としていくのか、より現実的で踏み込んだ検討が必要ではないでしょうか。

そのような問題意識を持っていただくためにも、保健医療政策に関心のある市民の方や、医学・公衆衛生学等のアカデミア、政治家、官僚、企業など、より多くの方がアメリカの保健医療システムに関心を持っていいただければと考えています。


いいなと思ったら応援しよう!