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【医療政策③:アメリカ医療保険制度の歴史②】
今回は、アメリカの医療保険制度の歴史について、前回の続編としてお届けします。
前回は19世紀末から1960年代にかけて、メディケアとメディケイドが制定されるまでの過程を詳しく見てきました。この時期のアメリカでは、雇用を基盤とした民間医療保険制度が主軸として確立される一方で、十分に保護されない層である高齢者や低所得者に対し、メディケアとメディケイドという公的医療保険制度が整備されていきました。
本稿では、1970年代から2000年代までの流れを概説してみたいと思います。
メディケア・メディケイドが成立した後、アメリカの政権では、高齢者・低所得者以外の層にも医療保険を適用しようという動きが度々見られましたが、いずれも失敗に終わりました。
こうした数々の取組みを概観しつつ、バラク・オバマ政権誕生に至るまでどのような動きがあったのかを見ていきたいと思います。
1970年代:ニクソン大統領による医療保険拡大の動き
メディケア・メディケイドの成立後、連邦政府の権限拡大への反発が高まり、1968年に共和党のニクソン政権が発足しました。ニクソン政権下での医療制度改革の焦点は、メディケア・メディケイドの対象外でありながら、民間医療保険にも加入できていない人々への医療保険の提供に置かれました。
ニクソン大統領は、政府主導の単一保険制度による国民皆保険には反対しつつも、既存の制度から取り残された層に対して、民間医療保険の普及を推進する方針を掲げました。具体的には、国家医療保険パートナーシップ(National Health Insurance Partnership)構想を打ち出し、その中で、雇用主への医療保険提供の義務化、メディケアの給付内容の拡充に加え、医療費抑制策としてマネジド・ケアの拡大を打ち出しました。
マネジド・ケアとは、従来の医療サービスの量に応じた出来高払い方式から脱却し、患者一人当たりの定額(人頭払い)払いを採用することで、医療費の抑制を図る仕組みです。この制度は1940年代にカリフォルニア州で前払い医療保険プランとして誕生し、1970年代に入ると、供給過剰の様相を呈していた民間医療保険市場において広く採用されるようになりました。
また、民主党側からも、エドワード・ケネディ上院議員から、連邦政府が運営する国民皆保険制度を導入する内容の医療保障法案(Health Security Act)が対案として提出されました。そのため、政府内での議論は、医療保険制度の拡充の是非ではなく、具体的な制度内容に焦点が当てられ、その意味では、国民皆保険制度の導入に向けて非常に大きな盛り上がりを見せたといえます。
しかし、ニクソン政権下で提案された一連の制度改革も、ケネディ議員から提出された対案も、最終的に途中で審議が打ち切られ、実現には至りませんでした。その背景には、ウォーターゲート事件によるニクソン大統領の辞任により勢いが失われたことや、労働組合などの業界団体から支持を得られなかったこと、また、共和党政権ながら上下両院において民主党優位という分割政府の状況下で合意形成が困難だったことなどが挙げられます。
続くカーター政権下では、国民皆保険制度の導入に消極的な姿勢を取ったことから、医療保険加入者の拡大に向けた実効性のある政策は打ち出されませんでした。
1980年代:「小さな連邦政府」下での医療費抑制
レーガン政権による医療費抑制政策
1980年、小さな政府と市場原理を重視する共和党保守派のレーガンが大統領に就任し、連邦政府の権限を大幅に縮小する一連の改革に着手しました。
特に医療分野では、医療費支出の抑制が喫緊の課題とされ、メディケアとメディケイドの財政支出削減に向けた政策が実施されました。
メディケアについては、連邦政府予算が削減されるとともに、メディケアパートAに診断関連群(DRG: Diagnosis-Related Groups)に基づく包括支払方式(主要疾病を468に分類して料金を割り当てる方式)が導入されました。また、医師の診療報酬についても、1984年から86年まで技術料が据え置かれました
メディケイドについても、連邦政府予算が削減された上、州政府に対して受給資格の見直しや診療報酬の調整といった裁量権を付与して支出の適正化を図りました。
民間保険市場の変容とブッシュ政権
1980年代のアメリカでは、民間保険市場にも大きな構造変化が生じました。1950年代以降上昇を続けていた医療費の負担が重くなってきたことに加えて、アメリカ経済の低迷と日欧企業との競争激化といった背景から、多くの企業が医療関連費用の削減を迫られ、従来の保険制度からマネジド・ケアへの移行が加速しました。
さらに、1974年に年金受給者保護を目的に制定されたERISA法(Employee Retirement Income Security Act)が転機となり、自社保険への移行も急速に進展しました。この法律により、一定の要件を満たした自社保険は、州の規制に基づく保険事項の適用除外となり、保険料に係る州税も免除されるといった利点があったためです。
1988年に就任したジョージ・H・W・ブッシュ大統領(父ブッシュ)は、レーガン政権で副大統領を務めた経緯もあり、基本的にレーガン路線を踏襲しました。ただし、政権末期の1990年代初頭には、民主党支持の拡大という政治状況を反映し、医療保険の適用拡大に前向きな姿勢を示すなど、政策転換の兆しも見られるようになりました。
1990年代:クリントン政権による改革の動き
クリントン政権第1期:医療制度改革の試みと挫折
1992年に就任した民主党のクリントン大統領は、医療制度改革を最重要課題の一つに掲げ、ファーストレディのヒラリー・クリントンを座長とする大規模な改革タスクフォースを設置し、同タスクフォースが作成した報告書を基に医療改革案を打ち出しました。
クリントン政権が策定した改革案の核心は、地域医療保険購買組合(Health Alliances)の創設でした。この制度では、雇用主に従業員の組合加入費用の負担を義務付け、民間保険会社がこの組合を通じて保険プランを提供する仕組みを構築しました。さらに、予算枠制度の導入と規制強化に加え、中小企業や低所得者への補助金給付も盛り込まれました。
しかし、この改革案は各方面から強い反発を招くこととなりました。中小企業団体(全国自営業連合)や共和党議員は財政負担増を理由に反対し、一部の民主党議員からも過度にリベラルだとの批判が上がりました。労働組合も現状維持を望み、消極的な姿勢を示しました。加えて、非公開であったタスクフォースの不透明性や、専門家から指摘された費用計算の妥当性への疑問が、市民の間に不信感を醸成しました。結果として、この改革案は議会の承認を得られず、廃案となりました。
クリントン政権第2期:漸次的な改革
1994年の中間選挙で民主党が大敗を喫し、上下両院で共和党が多数党となったことを受け、クリントン政権第2期の医療制度改革は、与野党協調路線へと軌道修正を余儀なくされました。しかし、この時期に成立した複数の法制度は、現在の医療保険制度の重要な基盤となっています。
その代表例が、1996年に制定された医療保険の携行性とその説明責任に関する法律(HIPAA:Health Insurance Portability and Accountability Act)です。この法律により、民間保険会社は原則として、直近6カ月以内の受診歴を理由とした被用者の加入拒否が禁止されました。これにより、既往症を持つ人々の転職に伴う保険加入の障壁が大きく低減されました。
1997年には、超党派の支持を得て州児童健康保険プログラム(SCHIP:State Children's Health Insurance Program)が発足しました。このプログラムは、メディケイドの所得基準を超えるものの、民間保険の加入が経済的に困難な家庭の子どもたちに医療保険を提供する新たな公的制度として設計されました。
同年には予算均衡法の一環として、メディケア・アドバンテージ(メディケアパートC)も創設されました。この制度は、メディケア加入者に対して、従来の州提供プランに加えて民間保険会社のプランも選択肢として提供するもので、競争原理の導入により医療費の抑制と医療の質の維持の両立を目指しました。
2000年代:ブッシュ政権による漸次的な制度改革
2000年に就任した共和党のジョージ・W・ブッシュ大統領(子ブッシュ)は、レーガン時代の徹底した個人主義・市場原理主義への反省から、思いやりのある保守主義(Compassionate Conservatism)を標榜し、中道路線を模索しました。この政治姿勢は特に高齢者医療において顕著に表れ、メディケアのプログラム拡充に前向きな姿勢を示しました。
その代表的な成果が、2003年に成立したメディケア処方薬・改善・近代化法(Medicare Prescription Drug, Improvement, and Modernization Act)です。この法律により、メディケアに新たに処方薬の保険給付(パートD)が追加され、加入者は民間保険会社が提供する処方薬プランを通じて薬剤費用の一部給付を受けられるようになりました。
しかし、ブッシュ政権は雇用主への医療保険提供の義務付けや新規の公的プログラム創設には消極的な立場を維持しました。その結果、この時期の医療保険制度改革は部分的な改善に留まることとなります。
転機が訪れたのは2008年、民主党のバラク・オバマが大統領に就任し、上下両院でも民主党が多数派を占めた時でした。ここに至り、アメリカの医療保険制度は大きな変革期を迎えることになります。
次回の記事では、いよいよオバマ大統領による医療改革を見ていきます。
(つづく)
【参考文献】
・天野拓『現代アメリカの医療改革と政党政治』(ミネルヴァ書房・2009)
・山岸敬和『アメリカ医療制度の政治史』(名古屋大学出版会・2014)
・朱賢『アメリカ医療保険制度の展開過程(1950-1991)』社会システム研究 20 p143-p169(2010)