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「選挙で投票しない」は誠実
今夏の参院選が近づき、選挙関連のニュースをちらほら目にするようになった。
これから夏の投票日まで、選挙関連のニュースは増えていくのだろうと思う。
それらニュースに目は通すけれども「選挙で投票する」という行為について否定的に捉えているため、今夏の選挙でも投票はしない予定である。
投票しない理由
選挙に対して、投票率が低いことが問題視されることがある。
数年前、投票しない人の理由を聞いたアンケートでトップ回答だったのが「誰に投票すればいいかわからない」というものだった。この回答は、政治に対して誠実な姿勢だと感じる。
国会にしても地方議会にしても、これらは立法機関であり、法律を作る場である。野次を飛ばし合ってパフォーマンスする場ではない。
法律を作る場なのだから、そこに参加する議員は、法律や法学の専門知識があり、また、外交や経済、社会保障等の政策についても知識が必要となる。
つまり、法律を作る専門家である。
しかし、議員に立候補する人たちが法律を作る専門家として相応しいか、それは実に疑わしい。
立候補する人に対して、国家公務員試験や政策担当秘書資格試験のような試験があればいいが、それがない。
国家試験を通っている弁護士や医師に対しては、それぞれ資格があるから、専門性が必要な医療や法律の相談相手として信用が保証されている。
しかし、国家の運営において重要な国会議員になるためには、供託金のお金とやる気があれば誰でも立候補できる。勉強などしていなくても、である。
そのため、選挙に立候補する人が法律を作る専門家という保証がない。
だから「誰に投票すればいいかわからない」のは当然で、誰に投票すればいいかわからないから投票しない。これが誠実な姿勢だと思っている。
保証がない中、誰かに投票するとなれば、”何となくの雰囲気”で決めるしかない。名前だけ連呼する街頭演説や、その人の身なり、所属政党、それから、メディアを通じて得る断片的な情報を元にした”何となくの雰囲気”で投票することになる。
結果、知名度だけはある世襲議員や元スポーツ選手、元タレントが立候補し、選挙に勝利することになる。
ドキュメタリー映画『選挙』
日本の選挙を描いたドキュメタリー映画『選挙』(2007年)がある。
小泉政権時代、落下傘候補として立候補した山内和彦氏の選挙運動が描かれる作品で、印象的な台詞がある。
山内候補が、街頭演説のコツについて「ポイントは名前を連呼すること」「今回は特に政党の名前を連呼すること」「投票する人は細かい話は聞かないから」という台詞である。
政党と名前だけ覚えてもらえばいい。政策への主義主張も、法律についても伝える必要はない。有権者はそんなこと聞いてないからである。
まさに、”何となくの雰囲気”で選ぶ選挙を象徴していると感じる。
議員の資格試験
18世紀にヨーロッパで生まれた間接民主主義の設立当初や、日本の明治の頃は、議員に立候補する人はごく一部の知識層だった。明示化されていないけれど、法律を作る専門家ということが保証されていたといえる。
そして投票する人も、ごく一部の人に限られていた。イギリスの哲学者ジョン・スチュアートミルも投票権について「国民はそう簡単に賢くならない」と言っている。
これはつまり、投票する側も、法律や政策について知識が必要ということを示している。
現代の日本は、国民の識字率は100%近い。小学、中学と義務教育もある。インターネットを通じて政治に関して多くの情報が得られる。ジョン・スチュアートミルの頃とは違い、全員がそこそこ賢い国民となった状況である。
しかし、”そこそこ賢い”に過ぎない。
医療ドラマを見たから手術できるわけでもないし、法廷映画を観たから弁護士ができるわけでもない。政治にしても、メディアを通じて流される断片的な情報だけで政治家になれるわけでないし、有権者も「誰が国の法律を作る専門家としてふさわしいか」などわかるはずがない。
国民一人一人は、自分の仕事があり、家族がいる。それだけでも大変な中、法律や政策について知る時間は限られている。
だから、そこそこ賢いけれど専門的な知識のない大衆が、選挙で誰に投票するか決めるには、弁護士や医師と同様、信用を保証するため、議員にも資格試験が必要だろうと思う。
投票=正しいではない
投票するのは当然のこと。だから正しいこととされる。
しかし、投票するのが当然ということに対して明確で合理的な理由がない。だから、投票するのは正しい行為などではない。
間接民主主義が生まれた頃と今とでは、社会環境がまるで異なる。それなのに、数百年前の間接民主主義の方式をそのまま用いているところからして、歪みが生まれるのは当然といえる。
だから今の間接民主主義の方式は限界であると思うし、議員の資格試験といった保証制度がない限り、投票率はもっと下がっていくべきだと思っている。