溝口健二とジェンダーステレオタイプ
海外で高く評価され、小津安二郎、黒澤明と並び日本の巨匠とされる映画監督に、溝口健二がいる。
『西鶴一代女』(1952年)、『雨月物語』(1953年)といった代表作は、不朽の名作といった位置づけがなされている。
しかし、溝口作品を何の違和感もなく「良い作品」とすることには、抵抗を感じる。溝口作品からは、どうしても、ジェンダーステレオタイプ、さらには性差別を感じるからである。
溝口健二作品から感じる違和感
溝口作品は、女性の生き様がテーマの映画が多く、そのため女性映画の名手とされる。
溝口作品で描かれる女性というのは、封建社会を背景に、男性のために自己犠牲を強いる女性になる。男性に尽くし、誠実で、一途で、古典的な日本人女性像といえる”男を立てる女”である。
そのような溝口作品に対しては、社会の犠牲となる女性の悲劇を描くことで、男性優位の封建社会を批判しているとする見方がある。それが一般的な溝口評ということになるのかもしれない。
しかし、実際のところは、溝口健二が撮ったのは女性ではなく男性であると思うし、また、男性社会への批判という点にも違和感がある。
溝口作品からは、自己犠牲の女性を悲劇のヒロインとして神聖化することで、男性が浄化される映画ということを感じる。また、犠牲となる女性は耐え忍ぶ女性であり、闘う女性ではない。だから極めて男性視点の映画と感じるし、性差別を感じる。
『西鶴一代女』や『雨月物語』などの代表作以上に、溝口健二らしい溝口作品と思っている作品として『残菊物語』(1939年)がある。
『残菊物語』は、歌舞伎役者・菊之助を主人公に、義理の弟の乳母であった女性・お菊との身分違いの恋が描かれる。菊之助が没落していく中でも、お菊は健気に支え、菊之助のために犠牲を自ら強いていく。
やはり、男のために自己犠牲する女性である。そして、耐え忍ぶ女性である。
そしてラストは悲劇を迎え、死の床にいるお菊と、歌舞伎界で大役を得る菊之助が象徴的に対比して映し出される。
『残菊物語』で描かれるのは、女の死という犠牲によって、立身出世する男の姿である。
ハリウッドにおける女性映画との違い
抑圧される男性社会からの解放や反抗を描いたハリウッドの有名作品として『テルマ&ルイーズ』(1991年)がある。最近では『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2020年)もあげられる。
これら作品のヒロインは、男性社会に反抗して、もしくは解放に向けて立ち上がって行動を起こす。
そして共通しているのは、どちらも最後は悲劇となる点がある。悲劇で終わることで、女性が男性社会に反抗しても、その願いが叶う社会になっていないという批判のメッセージを受け取ることができる。
そして、これら作品の悲劇においては、同時に男性にも救いはない。溝口作品のような浄化されて、立身出世する男性はいない。
ここが、『テルマ&ルイーズ』や『プロミシング・ヤング・ウーマン』と『残菊物語』との違いになる。
『残菊物語』も確かに、その悲劇性によって男性社会を批判していると捉えることは可能であるが、それをメインのメッセージと受け取るのは無理がある。
『残菊物語』の悲劇性から感じるのは、要するに悲劇のヒロインであって、そういう悲劇のヒロインは美しい、美しいけれど、かわいそう、だから男がちゃんと女の面倒を見てあげなきゃいけないという、男女平等もしくは女性解放に向けたメッセージは男性に向けられたものであって、『テルマ&ルイーズ』や『プロミシング・ヤング・ウーマン』とは異なっている。
異なる価値観を知る
溝口作品における、ロングショットと長回しによる独特のリズムやリアリズムには凄みがあり、名作という評価に偽りはないと感じる。
しかし、上述してきたように、溝口作品からは、どうしても古典的な日本人女性像と性差別を感じてしまう。だから、違和感を感じる。
しかし、だからといって、今の価値観でもって溝口健二は差別主義者だと批判したいわけではないし、するべきでもないと思っている。
溝口健二が監督をしていた頃と今とでは、価値観は大きく異なる。当然ながらジェンダー観についても異なるわけで、「男女平等」「男女同権」という同じ言葉であっても、今の価値観からするとまるで異なる意味を見出していることは当然といえる。
数年前、不朽の名作『風と共に去りぬ』(1939年)が、人種差別的としてアメリカの動画配信サービスで配信停止されることがあった(その後、当時の時代背景等の注釈を加えることで配信再開)。
『風と共に去りぬ』配信停止時、差別的であるとして『風と共に去りぬ』を配信停止することは、黒人差別があった歴史を否定することになるという意見が出ていた。その意見には同意を感じる。
臭い物に蓋をする方式で、”不適切な表現”とされることを規制して思考停止するのは容易い。
それよりも、『風と共に去りぬ』であっても『残菊物語』であっても、異なる時代の異なる価値観を知って違和感を感じることの方が、それらを知らず感じず過ごすよりも、現代における多様性もしくは公平性ということを考える上で価値があることだと思う。
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